2021年01月03日「罪人の負債」

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まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。
ローマの信徒への手紙 1章8節~15節

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説教の要約「罪人の負債」ローマ信徒への手紙1:8~15

本日の箇所は、ローマ書の序文の続きで、このローマ書の執筆動機と目的が記されている、と言ってよろしいでしょう。

その目的の一つとして、「 “霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。(11節)」とこのようにパウロは語ります。

この「“霊”の賜物」の、「賜物」という言葉は、ギリシア語でχάρισμα(カリスマ)という言葉です。今でも「カリスマ性」などと頻繫に使われていますあのカリスマの元になった言葉です。そして、このカリスマの語源は、ギリシア語で神の恵みを表す「カリス」、という言葉なのです。ですから、カリスマとは、もともと「神からの授かりもの」このくらいの意味なのです。

意外かもしれませんが、実はこのカリスマという言葉は、新約聖書におきまして、ここで初めて使われます。福音書と使徒言行録には見られずに、それを解説する機能を持つローマ書からの書簡の、しかも、その序文に出てくるのです。そしてパウロは、この後このローマ書とコリント書におきまして、繰り返しカリスマという言葉を用いています。

さらに、実は、これは、新約聖書以前のギリシア語の他の文献にもほとんど見られない言葉なので、このローマ書で初めて出てきたといっても過言ではないのです。ここにカリスマの原点があるのです。つまりカリスマという言葉を定義すると、このようになります。「カリスマとは、ペンテコステの日に聖霊が降り、教会が誕生した後、その教会の中で聖霊なる神によって与えられる神からの賜物」、これがカリスマです。

この信徒に与えられた神の賜物を、やがてパウロが彼の書簡でカリスマ、と名付けたのです。ですから、カリスマとは、人を引き付けるような強い魅力とか、そのような人間的な才能とは全く違うのです。私たちが、毎週教会で与えられた働きをするとき、それがそのままカリスマなのです。そもそもカリスマに優劣などないのです。

しかし、このカリスマを分け与えて、力になりたいと願いつつも、「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。(13節)」とこのように、パウロのローマへの道はなかなか開けませんでした。どうしてでしょうか。それは、人の願いと神の御心は違うからです。使徒言行録でもすでに学びましたように、パウロの計画と神の御心は一緒ではありませんでした。

 むしろ神の御心によってパウロの計画が、ことごとく砕かれていきました。しかし、実に、パウロの願いと神の御心が違ったのでこのローマ書が生み出されたのではありませんか。

 パウロが思い通りスイスイとローマでも、その先のスペインでも訪問していたら、このキリスト教の教科書は生まれなかったわけです。勿論、パウロは神が、このローマ書をキリスト教の教科書としてこのように用いてくださるなんて知る由もありませんでした。

 しかし、パウロが死ぬまでわからなくても、神の御心は、必ず実現するのです。

 私たちは完結した聖書で、その神の御心の全体像を今見ているわけなのです。

 ですから、実は、私たちは聖書の登場人物の誰にもまして、神の恩恵に与っているのです。

 そのうえでさらにパウロのローマ訪問の動機と目的が記されます。

「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。(14、15節)」これです。それゆえ、なかなか訪問することが許されないローマの地に、今手紙を書いていて、それがローマ書になったのです。

 ここで、パウロは、「果たすべき責任があります」、といいます。実は、この「責任」という言葉が、大切です。これはもともと金銭上の負債、つまり借金をあらわす言葉でありました。これは、新約聖書で7回しか使われておりませんが、他の用例でそのまま借金と訳している部分もあります。例えば、イエス様が語られた、仲間を許さない家来のたとえの中に出て来ます。

「決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。(マタイ18:24)」ここでイエス様が使われている、「一万タラントンの借金」、この借金です。そして、この「一万タラントン借金している家来」、それがパウロの自己理解だったのではないでしょうか。彼は「われ罪人の頭なり」といってはばかりませんでした。罪人の頭とは、最も負債を負っている者でもあります。他の誰よりも。

 ですから、パウロは最も借金を抱えているこの自分が、キリストの十字架によってその借金を帳消しにされたことを、一瞬たりとも忘れなかったのです。そしてそれがパウロの伝道の使命となり、情熱となったのです。

 つまり、ここでパウロが、果たすべき責任があります、この責任、或いは、この借金とはもはや彼の罪ではありません。キリストの十字架によって、借金の内容が変わってしまったのです。何に変わったのか、それは、罪の正反対に位置する福音です。全ての罪が帳消しにされた時、彼に与えられた負債は福音宣教なのです。汲めども尽きぬ命の言葉の宣教、それが全く新しい負債として彼に与えられたのです。なんと桁外れの恩恵でありましょうか。

 そして、キリスト者である以上、私どもも同じです。私たちも罪を帳消しにされた時、福音が新しい負債として与えられたのです。福音宣教に仕える、これが私たちの負債なのです。

 罪の負債が支払う報いは死でした、しかし、福音宣教という負債によって約束される報いは永遠の命です。死から命、正反対の負債が与えられた、実に私たち罪人に与えられた負債は永遠の命の道なのです。

そして、それぞれ、福音宣教に仕える役割は違います。

 お一人お一人が与えられたカリスマに応じて、果たすべき責任があるはずです。

 御言葉を語る者、聞く者、奏楽に仕える者、賛美をする者、司式をする者、献金を集め管理する者、献げる者、祈る者、或いは、試練を与えられて忍耐をする者、その一つ一つがカリスマで、それが今ここで躍動しているのです。それが礼拝なのです。

今年の私ども教会の年間テーマは「主を喜ぶ」であります。

この最初の礼拝で私たちは、年間聖句であります「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である(ネヘミヤ記8章10節b)」この御言葉によって招かれました。

 「主を喜ぶ」その頂点に礼拝があるのです。礼拝者として喜んで主の御前に立つ、これが罪許された罪人である私たちの負債であり、同時に永遠の命に至る報酬であります。