2020年12月27日「福音に召された者」

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聖句のアイコン聖書の言葉

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。ローマの信徒への手紙 1章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

「福音に召された者」ローマ信徒への手紙1:1~7

2018年の4月から始められました使徒言行録講解が、今年の11月の末で終わりまして、予定通り、本日からローマ書講解に入って行きます。

本日の御言葉は、ローマ書の序文の挨拶の部分で、実は、早くもこの短い部分にローマ書の中心使信の伏線が敷かれております。

パウロは、簡潔に自己紹介を終えた後(1節)、福音を神の約束の実現(2節)と最初期の教会の信仰告白によって(3、4節)、言い表します。パウロは、このローマ書を神の約束の実現とそれに対する信仰告白をもって始めるのです。

どこかで見たような形ではありませんか。そうです。面白いことに、この形式は、新約聖書の最初の言葉と同じです。

 アドベントから先週のクリスマス礼拝まで繰り返し申し上げてきましたように、新約聖書は、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」この言葉から始まります。

そして実にこれは旧約聖書の神様の約束の実現であり、同時に、旧約聖書を貫く信仰告白でもあります。つまりこういうことなのです。

新約聖書におきまして、マタイ福音書から使徒言行録でキリストの出来事とその後の福音宣教の様子が歴史的に描かれています。その歴史編の序文が、マタイ福音書で神の約束の実現と信仰告白で始められました。そして、キリストの出来事とその後の福音宣教で示された福音の真理を解説する役割が、ローマ書から始まる一つ一つの書簡にあって、その場合ローマ書は、新約聖書の新しい一ページといえるのです。

その教理編ともいえます最初のページの序文で、もう一度神の約束の実現と信仰告白が繰り返されているのです。何とも麗しい御言葉の調和であります。

まさかパウロは、新約聖書がこのように編集されるなんて思っていなかったはずですし、新約聖書が生み出されることさえ考えてもいなかったでしょう。

これこそが、聖書の究極的作者であります聖霊の配剤であり、最終的に新約聖書を生み出された聖霊のその御業の形跡が、このようなところでも現れているわけです。

その上で、「その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くため(5節)」、とパウロの福音宣教の目的が語られます。「その御名を広めて」、これは、福音宣教そのものであり、イエスの御名を地の果てまで宣教することです。さらにその実りが、「すべての異邦人を信仰による従順へと導くため」これです。ここで大切なのは、「信仰による従順」、この表現です。信仰の教科書ともいえますローマ書で、初めてここで信仰という言葉が使われるわけですが、信仰とは、実際に従うことであって、思想のようなものではないことがまず示されているのです。信仰は、必ず私たち罪人を服従する者へと変えるのです。しかも、「すべての異邦人」がその対象である、これに漏れる者は一人もいないということなのです。

 実は、この「信仰による従順」、この表現がローマ書でもう一度使われているのです。

 そして、それはエピローグ部分のしかも最後の最後なのです。

 「その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。(16:26)」この「信仰による従順に導くため」、この部分です。しかもここでもその対象は、「すべての異邦人」、これなのです。すなわち、信仰の教科書であるローマ書は、全ての罪人を、「信仰による従順に導くため」、の御言葉である、といえるのです。

 ですから、このローマ書をいかに学問的に学んで、内容を理解しても主なる神様に服従していないのなら、全く意味がないわけです。私たちが、今日から学びますローマ書の御言葉によって悔い改めて、神に服従する、これがそのままローマ書を理解することなのです。

 さらにこの序文で展望されるローマ書の中心的使信があります。

それは、1節、6節、7節で3度繰り返される、「召される」、という言葉によって示されます。これは、早くもこのローマ書のクライマックスに直結するような重要な言葉でもあるのです。この「召される」、という言葉はローマ書で4回使われている中で、実にそのうち3回が本日の箇所で使われておりますが、実は最後の一つが、このローマ書のクライマックスで、神様の驚くべき恵みを示すために使われているのです。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(8:28)」これです。

 いかかでしょうか。目のくらむ様な恩恵ではありませんか。

 これはこのローマ書のクライマックスにある御言葉の約束であり、私たちが、今まで特に苦難の日に、苦しみの日に、或いは、喜びの日に、諳んじてきた御言葉です。

 特に、コロナ禍にあって今、この御言葉が最後の砦ではありませんか。いいえ、死の床にあっても尚、恵みを確信する御言葉でありませんか。

「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」、この約束がある以上、私たちが倒れることはあり得ないのです。もはや、悲しみも苦難も、いいえ死さえも決定的な問題ではないのです。

 このローマ書は、私たち罪人に信仰による従順を求める御言葉です。プロローグとエピローグでそれが示されました。しかし、ただ神に服従しろ、と奴隷扱いするのではないのです。

 むしろ逆です。そのクライマックスでは、私たちに対する限りない、無償の、圧倒的な神の愛が示されるのです。服従にも勝る神の愛、そして、僕以上に神の子である恩恵、これがローマ書の中心使信です。このローマ書は、服従と愛、僕と神の子、この2つの面の紹介をもって序文とするわけです。

 では、この恩恵に、この福音に召された者とはだれか。それは他でもない私どもです。

 「この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです(6節)」、これは私たちのことです。私たちこそは、異邦人であり罪人でありながら、神の愛と一方的恩恵によって召された者です。そうである以上、「万事が益となるように共に働く」、この約束をどうして疑いえましょうか。

 これが、今日からローマ書を学びます私たちの信仰であります。