2020年11月22日「終章Ⅱ・希望の鎖」

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終章Ⅱ・希望の鎖

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 28章16節~22節

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わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」すると、ユダヤ人たちが言った。「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」
使徒言行録 28章16節~22節

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説教の要約「終章Ⅱ・希望の鎖」使徒言行録28:16~22

 本日の御言葉から、次週の最終回まで、ローマの中心部にやってきてからのパウロの様子が描かれていきます。

パウロは、まずローマ在住の「おもだったユダヤ人たち」を招きました(17節)。しかし、彼らこそがローマにやってきた囚人パウロにとって、最も危険な立場にあったのではないでしょうか。エルサレムから彼らに、パウロ暗殺の根回しがあってもおかしくなかったからです。ところが、ローマのユダヤ人たちからの回答は意外なものでした。「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。(21節)」すなわちエルサレムからの情報が全く伝わっていなかったのです。パウロがエルサレムで逮捕され、カイサリアで2年間ユダヤ人たちから告発されていたという情報さえ伝わっていなかったのです。これはパウロも予想外であったはずです。

 しかし、冷静に考えますと実はこれが非常に大切です。ここにこそ、当時のユダヤ教とキリスト教の大きな違いがあるからです。

 思い出していただきたいのです。ローマにやってきたパウロをローマのキリスト者たちはどうやって迎い入れたでしょうか。彼らは、大急ぎでローマの中心部からパウロを迎えに飛んできました(15節)。これがキリスト者の交わりであり、教会の姿です。

 しかし、ユダヤ教はどうでしょうか。実に今、エルサレムとローマの間に分断が起こっているのです。これがこの時代のキリスト教とユダヤ教の違いなのです。

 ユダヤ教の聖地であるエルサレムの宗教的指導者たちは、誇り高き神殿の祭司たちでした。

 そこに彼らのステータスがありました。ですから、彼らは、その周辺のユダヤ教の共同体には、さほど関心がなかったのでしょう。ましてや、遠く、異教の地にあるローマのユダヤ教徒たちとの交わりなどには、全く興味がなかったのです。だから、2年間エルサレムが騒いだお尋ね者、指名手配犯が、ローマではよそ者程度で済まされていたのです。交わりと分断、当時のこの両者の違いが、このユダヤ人たちの最初の回答で明確に示されている、ということなのです。

 さらに大切なのは、この回答の中で、ユダヤ人たちが、鋭い言葉をパウロに突き付けているところです。それは、「この分派については、至るところで反対があることを耳にしている(22節)」、この彼らの発言です。「この分派」というのは他でもないキリスト教のことです。

 つまり、「至るところで反対があることを耳にしている」、これが彼らのキリスト教理解です。

  ここから2つの大切な真理が与えられます。

 一つ目、使徒言行録はもう終わります。今エピローグ部分です。そして、使徒言行録を簡単に要約しますと、「聖霊の働きによってキリストの福音が地の果てまで響きわたっていく福音宣教の記録」とこのように言えましょう。では当時の世界の中心でありますローマで、それはどのように理解されていたのでしょうか。それが、「この分派については、至るところで反対があることを耳にしている」、これなのです。如何でしょうか。聖霊の働きによって、福音が世界中に響き渡ったのはよくわかります。しかし、世界の中心であるローマからその福音宣教の有様を客観的に観察する時、「至るところで反対がある」、とこのように処理されているのです。決して大成功しているわけではないのです。

むしろ、教会はいたるところで反対され、戦っている、それが現実であったのです。

そういう状況で、今使徒言行録はあっさりとそのページを閉じようとしているのです。

 しかし、それゆえに二つ目、実に福音宣教、そして、教会には、「至るところで反対がある」、これが真理であり、むしろこれが旗印ともいえるのです。それは、そもそも教会の頭であるイエスキリスト御自身、「反対がある」、がゆえに十字架につけられたからです。

「至るところで反対がある」、それは十字架の上から主イエスが眺められた風景そのものではありませんか。この世は、我らの主を十字架につけたのです。

そして、実にそれは主イエスが誕生された時に予告されていたのです。次週から丁度アドベントに入りますが、救い主を待ち望んで、ついに救い主に見えた年老いた信仰者シメオンが、それを語ったのです。「この子は~反対を受けるしるしとして定められています。(ルカ福音書2:34)」

主イエスは、「反対を受けるしるし」なのです。

 そして、実はこの「反対を受ける」、という言葉が、本日の御言葉の「至るところで反対がある」、この「反対がある」、この言葉と全く同じなのです。ルカ福音書の続編が使徒言行録です。

 すなわち、ルカ福音書で最初に予告された「反対を受けるしるし」は、キリストの十字架で明らかになり、そして、最終的に、この十字架の言葉を宣教する福音宣教が、「反対を受けるしるし」になっていた、ということなのです。そして「反対を受けるしるし」である主イエスの十字架と復活を妥協せず宣教したので、パウロは今鎖につながれているのです。「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです(20節)」このようにパウロが言った通りなのです。

実に、このイスラエルの希望が、反対を受けるしるしに他ならないのです。

そしてパウロは、これを、このローマの地に宛てたローマ書のテーマといえる部分で明確に宣言しています。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。(ローマ書1:16)」これがローマ書を貫くテーマです。

では、そのテーマで、どうして、「わたしは福音を恥としない」、とパウロは宣言したのでしょうか。

それは、福音が、そのまま「反対を受けるしるし」であるからです。そして、福音が「反対を受けるしるし」であるがゆえに、パウロは今鎖につながれております。しかし、それは彼の恥ではありません。むしろ希望です、これは希望の鎖なのです。

私たちは伝道を始める時、真っ先にマイナス要素を探してしまいます。しかし、この鎖につながれてローマ伝道を始めたパウロの姿は、福音宣教にマイナス要素はない、ということを雄弁に語っています。それどころか、福音宣教にマイナス要素はない、それを使徒言行録は、ここまで示してきたのではありませんか。この使徒言行録が私たちの命の言葉とされるのなら、どうして福音宣教にマイナス要素が見つかりましょうか。それを今日まで2年半教えられてきたはずです。

 これから先、キリスト者であるがゆえに、私たちに与えられるあらゆる困難は、そしてはずかしめさえも希望の鎖となりましょう。「わたしは福音を恥としない」、これは今全てのキリスト者に問われています。そして、私たちは「反対を受けるしるし」を旗印に、世の戦いに遣わされます。

それぞれ遣わされた場所で、その御旗の許にあって、「わたしは福音を恥としない」、これが私たちの信仰の戦いです。私たちキリスト者の生き様です。