2020年11月08日「目に見えぬ神~主は生きておられる」

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目に見えぬ神~主は生きておられる

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 27章39節~28章6節

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聖句のアイコン聖書の言葉

朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。兵は、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。

島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた。住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ。」ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、「この人神様だ」と言った。使徒言行録 27章39節~28章6節

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説教の要約「目に見えぬ神・主は生きておられる」使徒言行録27:39~28:6

早いもので、本日から使徒言行録の最後の章であります28章に入って行きます。

嵐に巻き込まれて、死と隣り合わせになったパウロたちは、それでもイタリア半島に近いマルタ島に上陸することができました。「島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。(2節)」とここで報告されています。

 276名もの遭難者のために、たき火をたいてくれた、これは大変な労働です。

 そして、ここでもパウロのとても彼らしい姿が描かれています。

「パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた。(3節)」パウロは、この時もう60歳くらいになっておりました。体力的には、やはり衰えていたはずです。ただでさえ2週間以上、嵐の海で過ごして、くたくたであったでしょう。それ以上に、パウロは、あの嵐の海の暗闇の中で、生きる希望を失った人々を励まし、勇気づけ、全員が助かるために働いた一番の功労者です。しかし、彼は、今、休む暇さえ忘れて、火をおこすための枯れ枝を集めているのです。この聖書の本文では、「一束の枯れ枝を集めて」、と訳しておりますが、ギリシャ語の聖書をよく見ますと、ここは「たくさんの枯れ枝を集めてきて」とも訳せます。むしろ、このように訳したほうが元々の文章には忠実です。パウロは、火をおこすためにありったけの枝を集めて、必死になって奉仕をしているのです。これがキリスト教信仰の姿です。

 私たちの信仰は観念的なものではありません。思想や心の問題ではないのです。そうではなくて、目の前の現実の中で立ち上がるものです。信仰者は、遣わされた場所で目の前の必要を感じ取って、自分のできることを見つけるのです。

 ところが、ここで「一匹の蝮が熱気のために出て来て、パウロの手に絡みついた」、というとんでもないトラブルが発生しました。ここから、周りの人々のパウロに対する見方が急変します。

彼らは、パウロの手に蝮がぶら下がっているのを見て「この人はきっと人殺しにちがいない」と言い出しました(4節)。そしてさらに、「海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ」、とこのように結論付けるわけです。ここに彼らの神学があります。

この島の人々は聖書と無関係に生きていました。その場合、悪い者には天罰が降る、この因果応報の原則を説明することが神学となるのです。そのために導入されたのが『正義の女神』であったわけです。しかし、その神学は何とも説得力に欠けるものでありました。

数分後、人々は手の平を返すかのように、パウロの評価を改めるのです。

「ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、「この人は神様だ」と言った。(5、6節)」

面白いことに『正義の女神』が生かしておかないはずの男が、数分後「この人は神様だ」、と一気に神に昇格しているのです。彼らの神学は簡単に逆転する類のものなのです。

今の人たちは、科学と無関係な時代の思想だ、未開の地の発想だ、と笑えるでしょうか。

しかし、これが聖書と無関係に生きているこの世の姿ではないでしょうか。

 現代は、2000年前とは比較できないほど科学が発展し、今もその進歩は続いています。

 私たち人間は、科学の恩恵を受けて豊かな生活を享受しています。しかし、神学はどうでしょうか。人々の心はどうでしょうか。2000年前のマルタ島の神学のままではありませんか。いいえ、むしろさらに貧弱になっているようにさえ思えます。

 現代も続く、災厄を恐れてのお払い、或いは先祖代々の呪縛を恐れての供養、これは『正義の女神』よりも科学的でしょうか。説得力があるでしょうか。いいえ、大目に見てもどっこいどっこいでしょう。すなわち、この先どれだけ科学が発達しても、肝心な人間の心や魂は、何も変わらないのです。

聖書は、この時代すでに、現代まで続くこの人間の本質を鋭く暴いているわけです。

御言葉と無関係に生きる時、人は得体のしれない力に支配されているのです。それが、今に至るまであらゆる偶像崇拝を作り続けているのです。

 本日の聖書個所で、パウロは一言も語っていません。ただ黙々と働いているだけです。

 或いは、日本語の聖書で読む限り、父なる神もキリストも、聖霊も登場いたしません。その文脈の中で、276名の者が助かり、マルタ島に上陸したことが報告され、その島が異教的な神学に支配されていたことが記されているのです。まるで神様と無関係に、淡々と時が流れているかのように描かれている、とそのよう感じてしまいます。これは、実に現代私たちがおかれている状況とよく似ています。私たちの神様は目に見えないからです。神にしかよりどころがない信仰者ほど、まるで神様がおられないような現実に苦しめられることがあるのです。「主よ、どこにおられるのですか」、と。

実は、本日の御言葉で、原文では明らかに神様の導きが確認できるのです。それは、27章の最後と、28章の最初です。この27:44の最後「全員が無事に上陸した」、この部分と28:1の最初「わたしたちが助かったとき」、この両方で、聖書的に非常に大切な言葉が、繰り返し使われているのです。それは、「救う」という言葉です。これは私たち人間の救いを示す大切な言葉です。しかも、それが受身形で使われているのです。ですから、27:44の最後はむしろ、「全員が陸の上に救われた」、と記録されているのです。すべての者は、彼らの力で上陸したのではなくて、神に救われた、と御言葉は言うのです。そして28:1の最初も直訳しますと「私たちが救われた時」とこのような表現なのです。主なる神様は目に見えない、しかし、ここでも聖書は、目に見えないその神様の救いを雄弁に語っているのです。全く神様がおられないと思ってしまう時にこそ、主なる神の救いが実現されている、これが聖書の語る真理なのです。

キリスト者でありましても、ほとんどの者が、目の前が真っ暗になるような思いをして、それでも歯を食いしばって生きています。それでも、歯を食いしばってもどうにもならないことは、いくらでもあります。しかし、それでも尚救われている、という事実は何ら変わらないのです。私たちの救いは、徹底的に受け身だからです。

私たちに与えられています、この新共同訳聖書の巻末に、聖書についての簡単な解説があります。この解説は、次のように始められています。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。列王記上17:1)エリヤ物語の初めに見られるこの言葉は、聖書の全内容を表している。」

私たちは、今は、信仰によって御言葉を通して「主は生きておられる」ことを知っております。しかし、やがて、その必要もなくなります。この世の生涯を終えた時、それが「主は生きておられる」、この真実を顔と顔とを合わせて確認する時であるからです(1コリ13:12)。(黙示録14:13も参照)