2026年07月12日「成長させる神」

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5節 アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。
6節 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
7節 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
8節 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。
9節 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。
コリントの信徒への手紙一 3章5節~9節

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説教の要約

「成長させる神」Ⅰコリント3:5〜9

先週から、いよいよ、このⅠコリント書講解は、3章に入りまして、コリントの教会トラブルの具体的な指摘が始まりました。

それで、先週学びました1〜4節までの御言葉で、パウロは、まず二つの点を指摘することによって、コリントの教会のトラブルの原因を整理しました。

一つ目は、コリントの教会が、全く成長していないことで、もう一つは、その彼らが成長していない原因が分派争いである、ということでした。本日の箇所では、この二つの問題に光が当てられます。

まずパウロは、「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か(5節)」、とこの両者の立場を問います。そして、両者ともに「仕えた者」にすぎないことを示し、その役割分担が「わたしは植え、アポロは水

を注いだ」、と農夫の働きに準えて説明されます。種を蒔かなければ、水を注ぐこともできませんが、種を蒔いても、水を注がなければ全く意味がないわけです。つまり、両者の働きは一体的なのであって、それぞれの働きを切り離して、分派をこしらえて、争っているのは、それこそ滑稽であり、全く意味のない愚かな対立である、パウロはこれをいいたいわけです。

さらに、パウロとアポロ、この両者には共通して決定的に足りないものが暗示されます。それは、命を与える力なのです。植物に命を与え、成長させる力は、神にあるからです。「しかし、成長させてくださったのは神です」、とパウロがいいますのは、命の主が神である、というこの決定的な事実に基づいているのです。種を蒔くのも、水を注ぐのも、この命の主である神に対する奉仕のひとつにすぎないわけです。

 その上で、一度簡単な結論が出されます。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。(9節)」。ここでは、「神の」、という表現が3回立て続けに使われているところに注目したいのです。まず、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり」、とパウロは言います。

 先ほどもパウロは、「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か」、と問うた上で、私たちは、神の奉仕者にすぎない、ということを強調し、福音説教のイニシアティブが神にあることを強調しました。

ここでも、それが確認されているわけです。

 しかし、どうして、ここまで、執拗に「神の」、という言葉が使われて重点が置かれているのでしょうか。それは、神の反対側にこの世があるからです。そして、私たちは、何かというと、この世の方を向いてしまうからなのです。もしも、パウロやアポロの働きが、この世的に評価されるのでしたら、それは、「この世のために力を合わせて働く者」、となってしまう。そして、常に福音宣教者は、その危険や誘惑にさらされているのです。神かこの世か、あるいは神か人か、これは福音宣教者の前に常に置かれている緊張関係であり、「あれかこれか」の厳しいクエッションなのです。

 パウロは、ガラテヤ書で、この自らの立場をはっきりとさせています。「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。(ガラテヤ1:10)」。この通りです。

「もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではない」、これは、全ての福音宣教者を規定する言葉であります。

しかし、決してこの規定は、福音宣教者と言われる牧師や伝道者だけをしばるものではありません。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり」、とパウロがいいます時、この両名は、先述の通り、「仕えた者」、という字で表現されていました。この「仕えた者」、というのは、ギリシア語で「 ディアコノス(διάκονος)」と発音し、執事職という言葉の起源がこの言葉なのです。

つまり牧師だけではなくて、執事さんも、あるいは長老も、「人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではない」、という御言葉に規定されているわけなのです。

 教会に仕えています以上、教会役員は全て、「神のために力を合わせて働く者であり」、人の評価を気にするのではなくて、主のお役に立てるために勤しむのです。また、教会員は、長老執事が主から与えられた大切な役割をよく理解して、彼らのために祈り、敬意を払い、共に同じ主に仕えていくことが求められているのです。

 さて、パウロは最後に、「あなたがたは神の畑」、と結論づけます。これは、言うまでもなく、コリントの群れを指しています。この時代は現代と違って、畑は身近なものでありました。コリントは商業や貿易が盛んでありましたが、畑によって生計を立てる信徒も少なくなかったはずです。ですから、畑の収穫次第では、生きていくことさえままならない、そういう現実に常にさらされていたわけです。

 そのような中で、「あなたがたは神の畑」である、この言葉によって教会が表現されたとき、信徒たちに与えられた平安が如何程であったかを私たちは思い巡らしたいのです。

 その上で、ここでもう一度、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」、この御言葉を確認したいのです。ここでは、パウロとアポロの行為が、「わたしは植え、アポロは水を注いだ」、と思い起こされ、神のお働きも、「成長させてくださった」、とこのように過去の出来事のように記録されています。しかし、実は、ギリシア語の本文では文法的に違う時制で両者の行為が示されています。

 「わたしは植え、アポロは水を注いだ」、これは、通常の過去形で記されていますので、この通りでいいのです。しかし、次の「成長させてくださったのは神です」、の部分の「成長させてくださった」、の時制は通常の過去形ではなくて、未完了という継続した動作が表現される時制が使われています。ですから、本来はこの部分は、「成長させてくださっているのは神です」、というニュアンスで御言葉は響いているのです。大切なのは、過去働いた人ではなくて、今もなお働かれる神である、パウロはそれがいいたいのです。

今年の初夏に、子どもたちがミニ向日葵の種を植え、信徒の皆様が水を注いだ、その過去の出来事は麗しい思い出の一コマとしていつまでも残るのでありましょう。しかし、それが過去のことである以上、今は、命を与え、成長の恵を与え、花を咲かせてくださる神のお働きに目を向けたいのです。

 これはそのまま「神の畑」である、私たちの教会に置き換えることも可能でしょう。

 私はこの高島平キリスト教会の四代目の牧師です。私の前の牧師のお働きはすでに過去形になっています。天に召された牧師もおられます。

私の貧しい働きもやがて過去形となっていくのでしょう。しかし、「成長させてくださっているのは神です」、この御言葉に立つ以上、それが一体何でありましょうか。むしろ、私たちの過去の働きは極めてポジティブに思い出されるのではありませんか。

 神を仰ごうではありませんか。

 神に希望を委ねようではありませんか。

 「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」

 人か神か、実にそれは有限か永遠か、死か命かの選択であり、「成長させてくださる神」に目を向ける以上、私たちの希望が潰えることはありません。