神の知恵
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コリントの信徒への手紙一 2章6節~9節
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聖書の言葉
6節 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。
7節 わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
8節 この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
9節 しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。
コリントの信徒への手紙一 2章6節~9節
メッセージ
説教の要約
「神の知恵」コリント信徒への手紙一2:6〜9
本日の御言葉は、先週与えられた、「神の力によって信じるようになるためでした(5節)」、この神の力が実現したコリント宣教の結論からの展開であり、あらためて「人の知恵」が退けられ、「神の知恵」に光が当てられます。
ここで、まず、「信仰に成熟した人たち(6節)」、という表現があります。この「成熟した」、という字は、「完全な」、という意味が強い言葉で、当時のギリシア哲学において、キーワードの一つでありました。特に、プラトンやアリストテレスによって「完全な徳」を表現するために用いられた言葉でした。ですから、この時代のコリントの人々にとって、この「成熟した」という言葉は、知的完成度はもちろん、品格や善行、といった道徳的な美徳だけでなく、身分の高さや豊さのような社会的な卓越性の頂点を示すようなニュアンスで響いていた、そういう言葉であったと思われます。
しかし、パウロは、それを逆手にとって、その「成熟した人たち」、と「知恵」との関係を論ずることによって、「成熟した人たち」の、その一般的な理解をひっくり返してしまうわけです。
パウロは、「成熟した人たちの間では知恵を語ります」、と言う側から、「それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません」、とこの世と、この世の支配者たち、つまり、「成熟した人たち」と思われていた立場を真っ向から否定するからです。
特に、「この世の滅びゆく支配者たち」、という表現は強烈ではないでしょうか。このパウロの時代はパクスロマーナの全盛期であり、それは2世紀の後半に、五賢帝と呼ばれる皇帝が登場するまで続きました。ですから、誰の目から見ても、この時代の支配者たちは、滅びるどころか、ますますその勢力を伸ばしてその支配を確立するように映っていたはずです。
しかし、パウロは、そのローマの平和と謳われた時代に、その滅びを全く疑っていないのです。これが信仰者の慧眼でありましょう。
パウロは、その「滅びゆく支配者たちの知恵」をさっさと退けて、「神の知恵」を語ります。「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。(7節)」、この通りです。ここで、「神秘としての神の知恵であり」、というくだりがあります。先週も確認しましたように、この「神秘」という字は、ギリシア語では、ミュシュテリオン( μυστήριον)という字で、英語のあのミステリー(mystery)の語源となった言葉です。人知を超えた計り知れない神の知恵、それがこの言葉で表現されているわけです。
その上で、最後の「定めておられた」という言葉が重要です。これは、新約聖書で6回しか見られない言葉なのですが、そのうち5回はパウロが用いていて、しかも神の選びを示す、極めて大切な御言葉でそれが見られます。その一つが、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。(エフェソ1:4、5)」、この箇所で、これは神の選びを示す決定的な御言葉です。ここで、「お定めになったのです」、とありますこの「定める」という字が、本日の御言葉で、「定めておられた」と記されています同じ言葉です。
私たちを、「神の子」にしてくださるご計画、しかもそれは「天地創造の前に」遡る永遠のご計画、それが、この「定める」という字で表現されているわけです。「隠されていた、神秘としての神の知恵」とは、この神の偉大なご計画なのです。そして、このすべての根拠が、主イエスの十字架なのです。ですから、「神の知恵」、それは、そのままイエスキリストである、と申し上げてもよろしいでしょう。
パウロは、コロサイ書で、このことをさらに明確に謳います。「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。(コロサイ2:2、3)」この通り、私たちの主イエスキリストこそが神の知恵と知識の全てなのです。
しかし、神の知恵であるキリストは、この世の権力構造しか見えていない「この世の支配者たち」にとっては、それこそミステリー(mystery)でありました。ですから、続いてパウロは、「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした(8節)」、といってはばかりません。そして、「もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」、とこのように、その決定的な証拠が提示されるわけです。なんとも皮肉な結末ではありませんか。つまり、「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解」できなかった、だから、「栄光の主の十字架」が実現して、人類に救いがもたらされたからです。「この世の支配者たち」の無能さや罪まで用いられて、私たちの救いである、イエスキリストの十字架が実現されたのです。私たちは、今、この世の支配者たちの無能が世界さえも滅ぼすかのように怯えていますが、それさえも主なる神様の御支配の中にあるわけです。
さて、パウロは、この隠されてきた神の知恵の経緯を説明するのに、旧約聖書のイザヤ書を引用します。「しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。(9節)」(*これは、イザヤ書64:3と65:17を組み合わせた引用の仕方になっています。)
ここで注目したいのは、「神は御自分を愛する者たちに準備された」、この部分です。この神が御自分を愛する者たちに準備された永遠の住処、それが来るべき神の国であり、「新しい天と新しい地(イザヤ65:17参照)」であることは、いうまでもないでしょう。そして、これは7節で語られていた、「神秘としての神の知恵」を具体的に説明するものであります。さらに、それは、7節後半部分で記されていますように、「神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもの」であります。前述の通り、この「定めておられた」という字が重要で、先ほどは、エフェソ書の1章にあります神様の永遠の選びの御言葉を確認しました。実は、さらに大切なところで、この言葉が繰り返されているのです。
「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。(ローマ書8:29、30)」。ここで、「あらかじめ定められました」、さらに、「あらかじめ定められた者たちを召し出し」、とこのように繰り返されています。これが、コリント書の本日の御言葉の方で、「神が御自分を愛する者たちに準備された」その全体像であります。ここには、私たちが神の子とされ、召し出され、義とされ(罪の赦し)、そして栄光とされる救いと恵の全てが所狭しと詰め込まれています。
そして、このすぐ前の節では、コリント書の方で、「神は御自分を愛する者たち」と明記されていた、その同じ神を愛する者たちに対する、この地上における偉大な約束がなされています。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(8:28)」この通りです。
ここに神の知恵がございます。結局、神の知恵というのは、愚かな私たちを救うための憐れみであり、恵みそのものであります。そして、それはそのまま十字架の主イエスなのです。