2026年05月31日「十字架の宣教」
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十字架の宣教
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コリントの信徒への手紙一 2章1節~5節
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聖書の言葉
1節 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。
2節 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
3節 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
4節 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
5節 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
コリントの信徒への手紙一 2章1節~5節
メッセージ
説教の要約
「十字架の宣教」コリント信徒への手紙一2:1〜5
ここで、パウロは、コリント伝道を振り返って、まず「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした(1節)」、と切り出します。「優れた言葉や知恵を用いませんでした」、という以上、つまり、「優れた言葉や知恵を」用いることもできたわけです。パウロは、幼い日から当時の最高の教育を受け、勤勉に学び、それを習得した知識人でした。聖書知識はもちろん、この古代という時代におけるリベラルアーツに関しても深く通じていました。ですから、それこそ言葉を操作する学問であり、この時代の最高の知恵とみなされていた「修辞学(古代ギリシアに起源を持つ弁論術)」も御手のものであったはずです。しかし、パウロは、自らが習得したそれらのこの世的な方法で、イエスキリストの十字架を「宣べ伝える」ことを放棄したわけです。
続けて、その理由が、「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。(2節)」、と示されます。
ここで大切なのは、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」、とキリストの十字架が、これ以上ないくらい強調されているということです。
「復活のキリスト」、とは言わないのです。もちろん、コリントの信徒の間でも、イエスキリストの復活は周知の事実であり、そもそも、キリストの復活がなければ、キリストの教会は生まれていません。
しかし、主イエスキリストの復活によって、十字架がチャラになったわけではないということです。
「イエス様が復活された」、それで「めでたし、めでたし」、ではないのです。むしろ、死に勝利されたイエスキリストの姿は、さらに鋭く十字架の死を際立たせるのです。復活によって、十字架で死なれたのが、神の御子であったことが証明されたからです。私たち罪人が十字架につけたのは、神の御子であった。これが福音なのです。
ここでパウロが、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」、と強調するのは、復活によって神の御子の十字架が、帳消しになるどころか、ますます浮き彫りにされたその事実に基づくわけです。復活なんて信じられない、あり得ない、そのように否定するこの世の人に、私たちは、復活を論証するのではなくて、何よりもまず、神の御子の十字架という歴史的事実を証言するのです。神の御子の死は、復活よりもさらに驚くべき奇跡だからです。
しかし、その上で、この十字架の言葉をコリントの人々に適用して信仰を与えたのは、パウロではなくて、聖霊なる神様であることが、「 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした(3節)」、このパウロの姿から論証されていきます。
それにしても、なんとも無様なパウロの姿であります。パウロは、目が不自由であったとか、癲癇持ちであったとか、推測されていまして、いずれにしましても、決して健康ではなかったことは確かです。そして、特に現代のように医学が発展していなかったこの時代、病というのは、自らの罪にその原因があるとみなされるのは、至ってノーマルなことでさえありました。病持ち=罪の帰結、という因果応報の論理が普通に信じられていたわけです。
しかし、パウロは、それを福音宣教のデメリットにはしていないのです。「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。(4節)」、これがパウロのコリント伝道の総括であり、パウロが、「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安で」あったことが、かえって、コリント伝道の立役者が聖霊なる神様であることを明らかにしたのです。パウロの弱さは、聖霊なる神様の力を証明したわけです。
使徒言行録の18章に、このパウロのコリント伝道の様子が綴られていて、主がパウロを力づけた言葉が記録されています。 それが、「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ(使徒言行録18:9、10(249))」、この御言葉です。主がパウロに、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」、と言われたのは、どうしてでしょうか。パウロが、恐れたからです。語り続けることから逃げ出して、黙ろうとしていたからです。主は、私たち人間と違って無駄なことは一切言われないのです。さらに、「わたしがあなたと共にいる」、と主が言われたのも、パウロが孤独であると思い込んでいたことの裏返しです。
この弱い信仰者がパウロなのです。しかし、私たちは、この弱いパウロよりも少しはマシでしょうか。
いいえ、はるかにそれ以下です。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」、これ以上に私たちのこの群れに響く御言葉がありましょうか。これは、昨年この新しい会堂の献堂式で与えられた御言葉であり、新会堂の記念誌の表紙に刻まれた神の言葉です。この会堂がボロボロになっても、この御言葉の輝きがほんのわずかでも薄れることはありません。
さて、その上で、さらに十字架の言葉を解明するのは、人間の知恵や力ではなくて、神の力であることが決定づけられます。「それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。(5節)」、パウロが、「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安で」あったのにもかかわらず、コリントに信仰者が起こされ、教会が建てられた、これが、「神の力」が実現した証拠であるわけです。
よく見ますと、実は、この節は、十字架の言葉の段落の最初に謳われた1:18の「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」、この結論になっています。最初に提示された、「わたしたち救われる者には神の力です」、というこのテーゼが、ここで、「神の力によって信じるようになるためでした」、とこのように結論づけられているわけです。ですから、十字架の言葉にとって大切なのは、「神の力」であって、これが決定的に重要です。「神の力」、というのは、具体的には聖霊なる神様のことです。聖書におきまして、この両者は交換可能なほどに同義的です。ですから、ここでは、十字架の言葉であるイエスキリストの福音を信じさせるのは、人の知恵によってではなくて、聖霊なる神様のお働きである、ということが宣言されているわけなのです。
私たち信仰者の役割は信じさせることではありませんし、そもそもそんなことできません。罪人の心を砕き信じさせるのは、「神の力」、すなわち、聖霊なる神のお働きなのです。私たちの役割は信じさせることではなくて、この私が信じることなのです。ですから、大切な家族や友人が、なかなか福音を信じてくれない、その責任を自らに問うてはなりません。むしろ問われるべきは、この私が福音を信じているか、しかも大真面目に信じているか、十字架の言葉に立って生きているか、このことであります。
「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」、ここに私たちの信仰の全てがある。
そうである以上、衰弱していても、恐れに取りつかれていても、ひどく不安であっても、それは問題ではありません。むしろ、そこにこそ神の力である、聖霊は降り、その御業を実現されるからです。
私たちは、私たちの弱さや、貧しさこそが、聖霊なる神様の力を優れて証明していることに目を開かれたいのです。弱さを誇る、というのはそういう信仰の営みであるからです。