2026年05月03日「十字架の言葉」

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聖句のアイコン聖書の言葉

18節 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
19節 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」
20節 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
21節 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
22節 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
23節 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
24節 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
25節 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
コリントの信徒への手紙一 1章18節~25節

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説教の要約

「十字架の言葉(前)」Ⅰコリント書1:18〜25

1章18節〜2章の終わりまでの御言葉は、早くもこのⅠコリント書のクライマックス部分であって、この書簡全体を貫き、そして書簡全体に響く大切な真理が謳われています。差し当たって、本日与えられました18〜25節の部分が、極めて重要です。ここがⅠコリント書の中心だからです。それで、この御言葉も今週、来週の2回に分けて、丁寧に教えられたいと願います。

ここでは、真っ先に「キリストの十字架」の宣教を規定する「十字架の言葉」が命題として定義されています。それが、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。(18節)」、この御言葉で、この十字架の言葉の命題が、ここから2章の終わりまでの箇所で論証されていきます。

大切なのは、パウロは、ここから「十字架の言葉」の何であるかを論証していくのでありますが、論証する以前に、まずそれは「神の力」である、と宣言するところです。つまり、「十字架の言葉」は、論証によって単に論理や知識として説明され、告知されるだけの代物ではないということです。そうではなくて、「十字架の言葉」が論証されると、そこに「神の力」が実現する、つまり出来事が起こる、ということです。力は必ず事実となってこの世の現実に、そして実際の生活に作用するからです。

その上で、「十字架の言葉」が論証されるわけですが、その方法が、旧約聖書のイザヤ書からの引用によってなされるところが大切です(19節)。パウロは、神の言葉である旧約聖書を引用して、自らの論証の根拠としたわけです。つまり、その論証の方法は、「私はこう思う」ではなくて、「聖書はどう言うか」なのです。

さて、パウロは、そのイザヤ書の引用を根拠にして、いよいよ踏み込んでいきます。「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。(20節)」、ここでは、「知恵のある人」、「学者」、そして「この世の論客」、と三種類の知識人が登場します。これは、それぞれの立場を区別したり強調したりする意図を持ってこのように並べられているのではなくて、この世のあらゆる知恵を象徴するための一つのレトリックです。ですから、この節の強調点は、「神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」、この部分です。ありとあらゆるこの世の知恵が交差し、そして行き交うその只中で、その全てが神に対しては愚かなものでしかない、パウロが言いたいのはこのことです。ですから、次の節でこのことが説明されます。

「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。(21節)」、どうして、この世のあらゆる知恵が愚かなのか、その解答が、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」、これです。聖書の世界におきましては、神を知ることができない知識は、知恵とは言えないのです。むしろ、神を知ることが知恵の始めであると表明するのが聖書で、「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。(箴言1:7)」、と謳われている通りです。

ですから、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」、ここでは、この世の知恵が、聖書的には、知恵の初めにも届いていないということが明確にされているわけです。

本来人間は、神と共に生きるために、神のかたちに創造されたのでありますが、堕落をしてその神との正しい関係を失ってしまいました(創世記2、3章参照)。このことによって、私たち人類は、神さまが創られた天地万物、目の前に広がる自然によって、神様を知ることは不可能になったのです。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」、というのはそういう事実です。その上で、「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」、と繋がるわけです。つまり、ここでは、「宣教によれば、世は神を知ることができる」、ということが前提にされているわけで、それが神の知恵である、とこのようにパウロは言うのです。そして、この「宣教」こそが、「十字架の言葉」であり、そうである以上、「滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」、と謳うこの「十字架の言葉」の命題がここでも響くわけです。

 時間や、季節、雨や風、天体の星、この目の前に広がる自然という神の創造の御業、それらは、滅んでいく者にも救われる者にも等しく与えられています。しかし、それだけでは人は神を知ることができないし、救いへと導かれることはないのです。そこで、与えられたのが、「宣教という愚かな手段」であって、この「宣教」によって初めて人間は神を知り、悔い改めて救いへと導かれるわけです。

通常、全ての人に等しく与えられる自然現象を一般恩恵と呼びまして、それに対して、救われる者だけが導かれることになる福音宣教を特別恩恵と呼びます。つまり。ここでは一般恩恵の不十分さと、特別恩恵の必要性が明確にされているわけなのです。

ここで注目したいのは。「宣教という愚かな手段によって」、と表現されて、最初から、宣教が「愚かな手段」であることが、当然のようにされているところで、これは、非常に大切ではないでしょうか。

 福音宣教というのは、決してスマートなものでもクールなものでもないのです。むしろ、不恰好で、見苦しい、みっともない、そういうものであるのです。私たちは、家族や友人に伝道をする場合、見栄えを気にしたり、言葉に磨きをかけたいと願ったりして、なかなかうまくいきません。しかし、そもそも、福音宣教は、そのような見た目の問題とか、コミュニケーション能力などのスキルの問題ではないのです。宣教は「愚かな手段」なのですから。

 「チイロバ」と自ら名乗って短い生涯を福音宣教に捧げた榎本保郎牧師は、「聖書は、私たちにイエスの弁護士になれなんて一言も言っていない、そうではなくてイエスの証人になれと言っている」、とこのように記しています。弁護士は、法律に十分通じていなければなりませんが、証人は一つの事実さえ証言できれば十分なのです。つまり、この私が十字架の言葉によって救われた、という事実さえあればそれで十分なはずなのです。これが伝道ではないでしょうか。主イエスは、私たちに弁護してもらわなければならないようなお方ではありません。むしろ、わたしたちを弁護してくださるのが主イエスに他ならないのです。私たちは救われた、という事実を知っていれば十分なのです。

 実に、パウロは、宣教が「愚かな手段」であることを自らの伝道人生によっても証いたしました。彼にとって、それは決して単なる思想ではなくて、現実であったからです。

 「キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。(Ⅱコリント11:23〜29)」。これがパウロなのです。間違ってもこんな目に遭いたくない、と誰もが思う、しかもその連続が彼の生涯であったのです。しかし、「十字架の言葉」は、この一つひとつの場面で、その一瞬一瞬で必ず響いていたはずです。私たちに、そのままこうなれ、とパウロも聖書も言いません。しかし、せめて、この週だけでもこのパウロの伝道人生を思い巡らしたいのです。

そこで、最終的に響く言葉は、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」、この「十字架の言葉」の命題ではないでしょうか。