2026年04月26日「イエスの名による勧告(パラカロー)」

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聖句のアイコン聖書の言葉

10節 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。
11節 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。
12節 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。
13節 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。
14節 クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。
15節 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。
16節 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。
17節 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
コリントの信徒への手紙一 1章10節~17節

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説教の要約

「イエスの名による勧告(パラカロー)」Ⅰコリント書1:10〜17

いよいよ本日の御言葉から、Ⅰコリント書の本論部分に入ってまいります。先々週、このコリント書講解を始めた時に簡単に確認しましたように、この本論部分は、まずは、教会の内部抗争についての問題が1:10〜4章の終わりまでで扱われています。本日の箇所は、その序論部分と言えまして、ここでは教会の分派争いが指摘されながら、一致するための勧告がなされています。

本論に入って、まず注目したいのは、この節の文頭にくる言葉が、この日本語訳聖書の一つ目の文章の最後に置かれている「勧告します」、という言葉であるということなのです。この言葉を持ってコリント書の本論は始まるのです。そして、この「勧告します」いう字は、ギリシア語では、「パラカオー(παρακαλῶ)」と発音する言葉で、以前、使徒言行録講解やローマ書講解を続けていました時に幾度か触れましたが、最初期の教会の信徒の交わりを理解する上でこれ以上ない重要な言葉です。そして大切なのは、この勧告する、「パラカオー(παρακαλῶ)」、と言う言葉と聖霊なる神様との関係なのです、少し前にヨハネ福音書を読み進めていた時に、主イエス様が、聖霊なる神様を「弁護者」、という言葉で表現されていた箇所がありました(ヨハネ14:16、17)。実は、あの「弁護者」という字は、ギリシア語で、「パラクレートス(παράκλητος)」と発音する言葉で、本日の箇所で「勧告します」、と訳されていますその「パラカオー(παρακαλῶ)」と言う動詞から派生した言葉なのです。

 ですから、最初期の教会という文脈においてこの「勧告します」、と言うのは、聖霊なる神様に導かれた信徒の交わりと言う局面において語られるべき言葉なのです。

その上でさらに大切なのは、「わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します」、とありますように、この勧告が、「主イエス・キリストの名によって」なされていることなのです。

特にこの時代、名前は、その人物の全存在を表現する、これ以上ないくらい重要な意味を持っていたからです。現代人である私たちの感覚に届くようにあえて言い換えますと、「主イエス・キリストの名」というのは、「主イエス・キリストの実印」くらいの重みがあるのです。神の子の実印です。

パウロがコリント書の本論を書き始める時、そこには聖霊なる神様の導きと、主イエスキリストの権威とがみなぎっているわけです。

その上で、実際のトラブルの内容が指摘されます。

「あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。(12節)」。ここでは、コリントの教会が4つの分派に分かれて争っている事実が指摘されています。パウロ派、アポロ派、ケファ派、そしてキリスト派、この4つの派閥です。しかし、最初からこれらが無意味であることは明らかです。そもそも、「わたしはパウロにつく」、とパウロ派を名乗る者たちが党首に掲げたパウロ自身が、それを率いている訳ではないし、その派閥の存在を認めてもいないからです。つまり、この4つのグループは、それぞれ勝手に党首を担いで、自分たちの主張に、それこそそのリーダーの実印を無断で押して、その権威に訴えて口論をしているだけの話なのです。

この混乱にパウロは指摘します。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。(13節)」。特に、この指摘の中でも、最後の「あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」、と言う洗礼についての混乱が大きな問題であったようです。この後、この洗礼について執拗にパウロが言い続けることでそれが裏付けられます(14〜16節)。コリントの教会の洗礼の理解に大きな問題があったというのが一般的な解釈で、それは、洗礼を授ける者と授けられる者との間に、ある種の特別な神秘的関係が生まれる、というような異教的な思想であったようなのです。

そのような間違った教えが蔓延していた群れにあっては、洗礼の執行者が異常な立場に祭り上げられてしまうわけです。それを否定するかのようにパウロは、自分が洗礼を授けたことが、間違っても功績のようなものにならないように、いっそのことその行為を退けるわけです。

 パウロは、さらに洗礼の執行者という立場を否定しながら、自らの務めを明確にいたします。「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり(17節)」。ここで、パウロは、洗礼の執行者という立場を改めて否定し、本来、遣わされた務めが、福音宣教者であることを明らかにします。

大切なのは、これに続く、「しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」、この福音宣教者としてのパウロの目的です。これは、次の段落の、強烈な十字架の言葉の命題にそのまま接続する、非常に重要なメッセージだからです。ここで、「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」、とパウロが言います時、必然的にそのアンチテーゼが浮上するはずです。すなわちそれは、「もし、言葉の知恵によって告げ知らされた場合、キリストの十字架がむなしいものになってしまう」、というアンチテーゼです。これは次週からの予告になりますが、このアンチテーゼの正体が次の段落から具体的に説明され、それによって、キリストの十字架の宣教が、どういうものであるかが明確にされていくわけなのです。まさにこのコリント書の中心部分と申し上げても過言ではありません。次週から早くもその部分に入ってまいります。

本日は、「イエスの名による勧告(パラカロー)」という説教題が与えられました。前述のように、この段落が、最初期の教会の聖霊に導かれた信徒の交わりを表現する、「勧告します」、ギリシア語の「パラカオー(παρακαλῶ)」と発音する言葉で始まり、しかもそれは、そのまま主イエスキリストの勧告であったからです。ですからコリント書というのは、文献的にはパウロ書簡でありますが、それはキリストと聖霊の書簡に他ならないのです。

 特に、具体的にそれが裏打ちされるのは、この本論の最初の2つの節で立て続けに叫ばれる、「兄弟たち」という呼びかけだと思うのです(10、11節)。パウロは、分派までこしらえて、混乱していた群れを「兄弟たち」と呼ぶのです。教会トラブルは、必ず起こります。パウロ書簡の執筆目的の多くが、教会トラブルに対するものであったことが、それを裏付けています。しかし、教会トラブル解決のはじめの一歩が、「兄弟たち」という、この当事者同士の立場なのです。ところが、その大切なはじめの一歩で、「どっちが正しくて、どっちが悪い」、と心の中でジャッジしたがるのが、私たちの現実ではないでしょうか。それはどうでもいいのです(むしろその立場が教会トラブルを助長するのです)。

言い争いや衝突はあるはずです。しかし、それはむしろ神の家族の必然であり、信仰の兄弟げんかのようなものではないでしょうか。イエス様のお役に立ちたい、教会をよくしたいと思う気持ちは同じであるからです。その方法等に開きがあるから、分裂が起こるのです。しかし、信仰の兄弟げんかが原因でも教会は崩壊するのです。2千年の教会史が証言するだけでなく、実際、この数十年の間に、私たちの教派で繰り返されてきた痛ましい教会トラブルがそれを実証しています。

 そこで大切なのは、パウロが、コリントの教会に対して、真っ先に「兄弟たち」、と繰り返すことができた理由で、それは、パウロがその分裂の中にも十字架の主イエスキリストを認めていたからです。 

それは、「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。(8:11)」、この立場です。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」、ここに信徒の交わりの根拠があり、教会で諍いが起こってもなお変わらない信徒同士の関係があるのです。イエスの名による勧告、それは他ならぬ十字架の主の和解の言葉であります。