2020年10月18日「生きるということ」

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生きるということ

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 27章4節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

そこから船出したが、向かい風のためキプロス島の陰を航行し、キリキア州とパンフィリア州の沖を過ぎて、リキア州のミラに着いた。ここで百人隊長は、イタリアに行くアレクサンドリアの船を見つけて、わたしたちをそれに乗り込ませた。幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航行し、ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれる所に着いた。かなりの時がたって、既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。それで、パウロは人々に忠告した。「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」しかし、百人隊長は、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用した。この港は冬を越すのに適していなかった。それで、大多数の者の意見により、ここから船出し、できるならばクレタ島で南西と北西に面しているフェニクス港に行き、そこで冬を過ごすことになった。ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。やがて、カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができた。小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、使徒言行録 27章4節~20節

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説教の要約 「生きるということ」使徒言行録27章4節~20節

先週の御言葉から、パウロの最後の旅になりますローマへの航海が始まりました。

当時は現在のようにエンジンを付けた船はありませんでしたので、この航海は帆船で行われました。そして、帆船で行われていた地中海の航海におきましては、航海のできる時期とできない時期が決められていました。9月の中旬から「安全でない航海」と呼ばれている時期に入り、11月から3月は「閉ざされた海」と呼ばれていました。そして、3月から9月までを「確かな航海」と呼んでおりました。ですから、3月から9月までの期間以外、特に10月を過ぎますと、非常に危険が伴い、もう11月になりますと翌年の3月までは、航海を中断し、海には出ない、というのが決まりでした。断食日というのは10月の初旬でありましたので、「既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった(9節)」というのはそういう事情から説明されているのです。

 パウロがこの航海を続行する危険性を指摘したのは(10節)、当然の進言であったわけです。

しかし、「百人隊長は、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用した(11節)」、これが、これからの彼らの運命を左右する決断となりました。

この後、この船はとんでもない嵐に巻き込まれ、操作不能の状態になり(14~19節)、最終的に「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。(20節)」、とこのように、彼らは暗黒の中で、死を待つだけの状況になりました。三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。

 

 よく人の人生を航海に例えるようなことがあります。私たちキリスト者の歩みも航海のようなものかもしれません。特に、本日の聖書個所全体を読んでみますとそのように思えてしまいます。

 このことについて御言葉から2つことが教えられます。

 1つ目は、その航海は、信仰者だからといって、順風満帆に進むわけではないと言うことです。

キリスト者になったからといって、急に追い風が吹いて順調に生きていける、ということではないのです。それどことか、「主の恵みにゆだねられて」船出したはずなのに、最初から向かい風を受け(4~8節)、いつの間にか、荒れ狂う海に委ねられている、嵐にその命が引き渡されている(14~19節)、そう言う事態がここで起こっているのです。

私たちの信仰の歩みも、これとよく似ています。私たちは、身も魂も主イエスに委ね、キリストの者とされました。しかし、この世の只中で、なんと多くの困難が与えられているのでしょうか。

パウロはキリスト者でした。この船の中には、パウロの仲間のルカとアリスタルコも乗っていました。しかし、彼らはキリスト者だからといって、この嵐の海にあって特別扱いされたでしょうか。いいえ、同じです。キリスト者であろうがあるまいが、同じ嵐の中で命の危機にさらされたのです。

私たちは、今日遣わされるそれぞれの持ち場で、キリスト者だからといってこの世の現実の中で特別扱いされることはありません。キリスト教は、そのようなご利益宗教ではない、ということなのです。

そして、2つ目、この航海は、思い通りにならない、ということです。

パウロは、極めて常識的な根拠に立って、航海を続ける危険性を指摘しました。そして、彼の言うことは正しかった。しかし、この世の事情を優先した大多数の意見にかき消されて、彼らとともに嵐の海の中に巻き込まれていきました。

正しい道を歩みたいのに、決して思い通りにはならない、ということです。「生きていく」というのは、そういうことではないでしょうか。「確かな航海」をしたいのに、「閉ざされた海」に投げ込まれていく、それはパウロだけの話ではありません。とんでもないとばっちりを受けたり、思いもよらぬことに巻き込まれたり、或いは裏切られたり、私たちの生涯は、そのような困難の連続であり、信仰はその中で試されるのです。

それでも、百人隊長も、船長も、航海を続けることに賛成した多くの者たちも、決して滅びに向かうつもりで海に出たわけではありません。むしろ彼らはbetter lifeを求めて海へ出たはずです。そしてこれも「生きる」、ということです。

人は誰でもbetter lifeを求めて船出します。よりよく生活したい、もっと幸せになりたい、と。

滅びたいと思って出発する人はいないはずです。

言い換えて見ますと、「人は救いを探し求める旅人である」、ともいえるのではないでしょうか。

ところが、その結果必ず救われるのではありません。むしろ、パウロと船にいた全ての人は、「ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた」、とこのような事態に追い込まれたのです。

しかし、そこで希望を失わないのがキリスト者です。

「幾日もの間、太陽も星も見えず」、暗闇に支配された時、その暗闇に光を見るからキリスト者なのです。それは、その暗闇も、天地の創り主であります私たちの主なる神の御手の中にあるからです。

本日私たちは、このゆるぎない信仰に立った古の信仰者の詩で礼拝に招かれました(詩編139:7~12をお読みください。)。

この旧約詩人が謳いました「闇も、光も、変わるところがない。(詩編139:12)」これが真の信仰です。

この世は「一寸先は闇」といいます。確かにそうでしょう。数時間後、どのような目に会うかさえわかりませんし、私たちには、未来を見る目がないからです。

ですから、人生は航海である、といいます時、実は私たちは最初から盲目なのです。

真に、人生という航海において全ての人が盲目なのです。しかし、それでも見えるのがキリスト者なのです。それは目の見えない私の手を引いてくださる方がおられるからです。それが主イエスです。御言葉を通して、主イエスは私たちを導いてくださっているのです。まるで盲目のランナーの手を引く伴走者のように、私が踏み外すことのないように導いてくださる、それが私たちの主イエスなのです。そして、私たちを導く主イエスは、十字架にかかるほどに私たちを愛してくださった方です。

この主イエスによって、私たちの「一寸先は闇」、それは「一寸先は光」に変わるのです。

私たちは、「確かな航海」を望みます。しかし、「安全でない航海」に巻き込まれたり、「閉ざされた海」に投げ込まれることばかりです。それどころか、今「閉ざされた海」におられる方もいらっしゃる。

それでも、その「閉ざされた海」を「確かな航海」にしてくださるのが、私たちの主イエスです。

どのような苦難や暗闇に立たされても、そこに主イエスの光を見る。これが「生きる」、ということではありませんか。今日遣わされた場所が、閉ざされた海であろうが、暗闇であろうが、主イエスに導かれて、御言葉によって生きようではありませんか。