2026年02月22日「安かれ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

19節 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20節 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21節 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
22節 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23節 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
ヨハネによる福音書 20章19節~23節

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説教の要約

「安かれ」ヨハネ福音書20章19〜23節

先週、そして今週、と2回に分けて、復活の主イエスが、弟子たちに現れた場面の御言葉を与えられています。

 前回確認しましたように、主イエスの平和と福音宣教は一体的でありました。「あなたがたに平和があるように(21節)」、と言われた主イエスは、間髪入れずに、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」、とこのように弟子たちを派遣されたからです。

 しかし主イエスは、決して丸腰で弟子たちを派遣されたのではありませんでした。それが、「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。(22節)」、この御言葉によって示されていて、ここでは福音宣教に遣わす弟子たちに与えられる二つのものが約束されています。

 一つは、命です。

「彼らに息を吹きかけて言われた」、この息を吹きかける、という言葉は、新約聖書ではここだけで、聖書全体でも、あともう一つしか見られません。そして、それは、人間が創造され、神様に命の息を吹きかけられる場面です(「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった(創世記2:7)」)。人間は本来生きる者として創られたのです。ですから死ぬというのは、ノーマルなことではなくて、実は異常なことなのです。この世は、人が死ぬのは、自然の摂理だと説明しますが、聖書の御言葉は、これに否を突きつけるのです。人が死ぬのは自然の摂理ではなくて、罪の帰結であって、本来人は生きるのがノーマルである、これが聖書の立場です。

人間は本来死んではだめなのです。しかし、それを、主イエスが「息を吹きかけて」、再び生きる者としてくださった、しかも今度は、永遠の命に生きる者としてくださった、ということなのです。

ですから、これは、創世記の人間の創造と対になる、新しい命の創造の記録なのです。十字架と復活において第二の創造が始まった、と申し上げてもよろしいでしょう。つまり、弟子たちは、その第二の創造の宣教を委任されたキリストの使者として、永遠の命を約束された上で遣わされるということなのです。丸腰どころか、「わたしもあなたがたを遣わす」、と言われた主イエスは、彼らに永遠の命というこれ以上ない報酬を与えて下さった、しかも先払いで与えてくださったわけです。

もう一つは、「聖霊を受けなさい」、このキリストの言葉です。

全能者なる聖霊なる神様を一つの枠組みで定義するようなことは慎まなければなりませんし、そもそもそんなことはできません。それでも、私たちが理解できる範囲で、聖書全体が示す聖霊なる神様のお働きは、「神の力」である、と申し上げてよろしいでしょう。ですから、主イエスが、「聖霊を受けなさい」、と言われます時、主イエスの弟子たちには神の力が与えられる、ということでありまして、これ以上のものはございません。主イエスの弟子たちは、永遠の命が保証された上で、さらに聖霊という神の力を帯びて、福音宣教に遣わされる、ということなのです。

さて、その上で、復活の主イエスは弟子たちを派遣する最後に、非常に大切なことを言われます。それが、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。(23節)」、この約束です。

これは、聖霊を与えられた使徒たちに、罪の赦しの権能が委ねられることの宣言とも言えましょう。ここで、大切なのは、主イエスが明らかにされた福音宣教の第一歩が罪の赦しである、という認識なのです。福音宣教というのは、すなわち、「罪の赦しの宣教」、と言い換えることもできるのです(ルカ24:45〜47参照)。

宗教改革者、J・カルヴァンは、この節に福音の全体が要約されているとさえ言っています。

 しかし、教会が、この罪の赦しの権能を濫用する可能性も実際あるわけで、カトリック教会の「告解」という赦しの秘蹟などはその具体例です。これは犯した罪を、司祭の前で告白することで、神からの赦しと和解を得る、とされている宗教儀式の一つです。しかし、聖書全体が約束する罪の赦しは、悔い改めて立ち帰れば、無条件に与えられるはずです。

 犯してしまった恥ずかしい罪を、具体的に告白しなければならない、などという条件が、どうして必要なのでしょうか。どう頑張ってもこれは福音ではありません。カルヴァンは、この告解と言う儀式を拷問とさえ言って憚りません。

私たちが犯した罪は、イエスキリストの十字架によって帳消しにされるはずです。神はもはやそれを思い出されない(イザヤ43:25、エレミヤ31:34参照)、と聖書が約束している以上、犯した罪は完全に消去されるのです。それなのに、それがどうして特定の人物の記憶に残り続けていいのでしょうか。私たち自身でさえ、過去犯した罪を完全に忘れ去ることはできませんし、しばしばそれを思い出して苦しむことさえございます。しかし、神の御前では、それらはもはや問題とはされない、無罪放免なのであります。「あなたがたに平和があるように」、と主イエスが言われましたこの平和とは、完全な罪の赦しが根拠になった主イエスが共におられる平和であるわけです。カトリックの告解は、わたしたちとイエス様を切り離し、なぜかその間に聖職者が割り込んでくる、そういう図式です。

今、私たちが使っています新共同訳聖書で、「あなたがたに平和があるように」、と訳されていますこのキリストの言葉は、その前の口語訳聖書では「安かれ」でありました。素晴らしい響きがこの言葉に宿っています。「あなたがたに平和があるように」、となって少しぼやけてしまったようにも思えるのです。私たちの父祖の世代は、この「安かれ」、という言葉を頻繁に用いていました。「安かれ」、このイエスの言葉に、生涯、彼らの信仰が支えられてきたと申し上げてもよろしいのではないでしょうか。

それだけ、この言葉には、ただならぬ説得力がございます。主イエスは、このヨハネ福音書の冒頭で、「初めに言があった」、と謳われる神の言葉そのお方であり、その神の言葉であります復活の主が、三度繰り返された言葉が、「安かれ」、であるからです。わたしたちキリスト者に、これ以上響く言葉はない、と申し上げてよろしいでしょう。

「安かれ」、これは自国版の「シャローム」であり、この言葉には、主イエスが共におられる約束と、それゆえに、どのような状況にあっても、そこに平和がある事実と保証とが詰め込まれているのです。そうである以上、どんな悲しみにあっても、どのような苦難にあっても、死の床にあってさえ、慰めと力を与える言葉でないでしょうか。現代は、ほとんど使われなくなったように思いますが、そこに現代のキリスト者の弱さがあるように思うのです。

私たちは、父祖たちが愛した主の言葉、「安かれ」、に匹敵するような言葉をもっているでしょうか。今、信仰の言葉が曖昧なのです。

言葉には人を立たせる力があります。その力をいつの間にか失っている、それが現代のキリスト教ではないでしょうか。信徒の交わりの中で、そして、私たちが一信仰者として、この世に遣わされるとき、疲れた時、孤独な時、挫けそうな時、あるいは、罪を犯して恐れている時、私たちの魂に響いている信仰の言葉はなんでしょうか。この世に溢れている、「まあいいか」 とか、「うん大丈夫」とか、非常に曖昧な言葉で信仰の戦いを続けていないでしょうか。これらの言葉には、この世以上の力は全く期待できません。

 私たちもう一度取り戻したいのです。父、母、そしてそれ以前のキリスト者を生かし、導き、死の床まで慰めを与えた、このキリストの言葉を取り戻したいのです。私たちの魂の中で、「安かれ」、この主イエスキリストの言葉が響いている以上、私たちの希望が潰えることはございません。