2026年02月08日「神中心の伝道」

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神中心の伝道

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
コヘレトの言葉 11章1節~8節

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1節 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。
2節 七人と、八人とすら、分かち合っておけ/国にどのような災いが起こるか/分かったものではない。
3節 雨が雲に満ちれば、それは地に滴る。南風に倒されても北風に倒されても/木はその倒れたところに横たわる。
4節 風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。
5節 妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。
6節 朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから。
7節 光は快く、太陽を見るのは楽しい。
8節 長生きし、喜びに満ちているときにも/暗い日々も多くあろうことを忘れないように。何が来ようとすべて空しい。
コヘレトの言葉 11章1節~8節

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説教の要約(2026年度年間聖句説教)

「神中心の伝道」コヘレトの言葉11章1〜8節

本日のこの主の日は、ヨハネ福音書講解説教を一度中普段して、私たちの教会が与えられたこの年の年間聖句であるコヘレトの言葉11章の御言葉に聞いてまいります。このコヘレトの言葉の印象として、どこか厭世的で、聖書の中でも異彩を放っているように思われている方が多いのではないでしょうか。それは、この書物のプロローグで謳われる、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。(1:2)」、この虚無的ともとれるくだりが、強烈なインパクトを放っているからでありましょう。しかし、他方で、特にキリスト教とは全く縁がなかった方で、このコヘレトの言葉が心に残り、聖書に関心を持った、という方が少なくないのも事実なのです。神の言葉の妙とでも申し上げましょうか、聖書の他の書物と比べて、明らかにネガティブな響きが全体を貫いていながら、心をえぐられるような鋭さがございます。それは、コヘレトの視点に理由があるように思えます。

本日の御言葉で、そのコヘレトの立場を理解する上で重要なのは、「国にどのような災いが起こるか、分かったものではない」、とありますこの「分かったものではない」、という表現です。これは、この後、5節の最後で、「神の業が分かるわけはない」、さらに、6節の最後でも、「分からないのだから」、と繰り返されて、結局この箇所で三度も使われます。実に、これが、コヘレトの言葉の主張する人生観であり、世界観でありまして、その根拠にありますのが、3:11の「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」、この御言葉なのです。ここに、コヘレトの言葉の神学的な結論が響いています。私たち人間には、「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」のです。つまり、わからないのです。本日の聖書箇所で、「神の業が分かるわけはない」、と言われている通りなのです。しかし、それでおしまいではないのです。私たちには、「永遠を思う心」が与えられているからです。私たちには、「永遠を思う心」が与えられているのにも関わらず、「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」のでありまして、ここにせめぎ合いと緊張感があるのです。コヘレトにとって、最初から「永遠を思う心」が与えられていなければ、「空なり、空なり」、なんて言い出す必要もなかったわけです。しかし、それでもなおコヘレトは、「神はすべてを時宜にかなうように造り」、と言って憚らないのです。なんという信頼でありましょう。そっけない表現ですが、冷静に考えてこれは、これ以上ない神への信頼です。「神の業が分かるわけはない」、と言いつつ、彼は神をほんのわずかでも疑っていない。つまり、このコヘレトの言葉が繰り返す否定的な言葉、「わからない」、これは、希望の裏返しであるわけです。この書全体に漂うネガティブな表現も、神へのパーフェクトな信頼と、それとは程遠い人の儚さという現実、その狭間に立つ古の信仰者コヘレトの言葉そのものであるのです。「永遠を思う心」が与えられていて、しかし、それがはっきりわからないから希望が必然的に生まれるわけです。

さらにコヘレトは、その現実に立って謳います。「光は快く、太陽を見るのは楽しい。長生きし、喜びに満ちているときにも、暗い日々も多くあろうことを忘れないように。何が来ようとすべて空しい。(7、8節)」、この「太陽を見る」、というのは、生きていることの言い換えです。ですから、簡潔に言えば、生きているのは楽しい、とコヘレトは言うのです。それと対になっている状態が「暗い日々も多くあろうことを忘れないように」、というこのくだりです。この「暗い日々」というのは、旧約聖書的な言い回しで、やがて訪れる死後の状況を意味します。つまり、ここには、命ある日々と、死後の日々との緊張関係が存在するのです(12:1も参照)。生きることは楽しい、しかし、その時間は極めて限定的であって、必ず死はやってくるのだから、結局空しいではないか、これもコヘレトの言葉の強調点です。これは、信仰を持たない人でも普通にシンパシーを与えられる人生の儚さであります。

 ですから、コヘレトは、地上に命があるうちに喜び楽しめと言って憚らないのです(8:15)。しかし、コヘレトは死んだら全ておしまいだなんて、微塵も感じていないことは確かです。その快楽さえも、神の賜物である、と永遠の神との関係で地上の生涯を語るからです。死んだらおしまいだから、生きているうちに楽しんでおけ、なんて姑息でちっぽけなことを彼は勧めている訳ではないのです(*12:13でこのコヘレトの言葉の結論が、最後の裁きの警告で終わることからも明確です)。

 しかし、それにもかかわらずコヘレトは、あえて神の国を持ち出さないのです。それは、彼が、神の偉大さを知りながら、そして信仰を持ちながら、この世の信仰を持たない人の視点に立ってこの世を観察しているからではないでしょうか。

 大貫隆という聖書学者がおられて、彼の「聖書の読み方」という著作の中に「不信心、不信仰のレッテルを恐れない」というセクションがあります。その中で、大貫隆は、教会を「キリスト教という電車」に喩えて、この「キリスト教という電車」から降りる勇気も必要であり、それは、キリスト教徒であること、信仰を放棄することではなくて、電車の外部にいる者たちの戸惑いを理解する能力である、と指摘しています。これがコヘレトの立場ではないでしょうか。「キリスト教という電車」は「天国行きの電車」と言い換えることも可能でしょう。コヘレトは、「天国行きの電車」を降りることで与えられる不信仰のレッテルを恐れずに、信仰を持たない人たちがたたずむプラットフォームにたって、この世界を注視しているのです。その時に、「空なり、空なり〜なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい、と彼は叫んだのです。

 前の世紀に、三浦綾子さんというクリスチャン作家がいらっしゃいました。彼女は、「信仰は賭けである」、と定義して、「私はイエスキリストの方に賭けた」、と言われていました。私が、まだ若い日にこれを読んだとき、キリスト教信仰を博打のように言われるのが、不敬虔に思えて少し腹がたちました。しかし、それは暖房の効いた「天国行きの電車」に乗って優雅に外を眺めている姿であることにやがて気がつきました。信仰を守らない方が、求道を始める、この世の常識で整備されたプラットホームから、「キリスト教という電車」に乗ることは、大きな賭けなのかも知れません。そもそも、キリスト教信仰は、この電車に乗れば救い、乗らなければ滅び、と「あれかこれか」の選択を突きつけているわけです。しかし、八百万の神が当たり前の我が国のプラットホームでは、「あれかこれか」ではなく、「あれもこれも」なのです。ですから、今年度の年間聖句の「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」、これは、「キリスト教という電車」に乗ろうか乗るまいか、その葛藤に苦しむ信仰を持たない人に対する勧めにもなっているわけです。私たちが、電車の外部にいる者たちの戸惑いを理解する時、この時代が要求する福音宣教を見出すことができるのではないでしょうか。「天国行きの電車」から降りた時の虚無感とは如何許りでしょうか。私たちの口も「空なり」と叫ぶのではないでしょうか。

 実に他の誰よりも「天国行きの電車」から降りて不信仰のレッテルが貼られた人物がいます。それは十字架のイエスキリストです。いいえ、イエスは「天国行きの電車」から降りたどころの話ではない、天国から降りてこられたのです。主イエスが地上を歩まれた時の当時の宗教家たちのイエスへの評価が、「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。(ルカ7:34)」、と記録されています。なんとも酷い言いようです。しかし、主イエス様が恐れたのは、不信仰のレッテルでも、罪人のレッテルでもないのです。そうではなくて、主イエスが畏れ敬ったのは、ただ天の父なる神お一人なのです。

「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」、この私たちの福音宣教は、この世の評価を恐れるのではなくて、ただ神を畏れ、虚無と孤独に苛まれている方の立場に立って十字架の主イエスを伝えることです。

「空なり、空なり」、だからこそ、救いは十字架にしかないのです。