2026年02月01日「わたしは主を見た」

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聖句のアイコン聖書の言葉

11節 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
12節 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
13節 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
14節 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
15節 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
16節 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
17節 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
18節 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
ヨハネによる福音書 20章11節~18節

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説教の要約

「わたしは主を見た」ヨハネ福音書20:11〜18

先週の説教の冒頭で申し上げましましたように、この11節から18節までの段落は、復活の主イエスの目撃証言が含まれていて非常に重要です。それで、先週と今週と2回に分けて、この段落の御言葉から教えられていまして、先週は、16節までの部分を中心に学びました。

誰よりも主イエスを愛していたのにも関わらず、死者たちの中にイエスを探すマリアの見ていた地平には復活の主イエスは見つかりませんでした。しかし、それにもかかわらず、イエスが、「マリア」と名指しで呼んでくださった時、彼女の目が開かれて、復活の主を見ることができたのです。

喜びのあまり、マリアは主イエスに縋りついたようですが、イエスは、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから(17節)」、とその手を払いのけます。どうしてでしょうか。それは、マリアが、復活の主を目撃して、肉体的な衝動でそれをつかんだからです。

「もうどこにもやらない、離さない、離れない」、それが、マリアが咄嗟にとった偽りのない行動であったのです。それには、復活の主を管理したいという強い意図がありまして、すがりつく、というのは、イエスを手中に収めたいという姿なのです。

これはマリアの純粋な愛情の裏返しでもありますが、主イエスは、その愛にさえ支配されるようなお方ではないのです。むしろ、「まだ父のもとへ上っていないのだから」、と主イエスが続けて言われましたように、主イエスは、地上でのお働きを終えられて、これからは天の父の右に座られて、天と地を支配されるようになるからです。さらに、これからは、聖霊なる神様が福音宣教を導かれ、福音が地の果てまでも響き渡る新しい時代がやってくるからです。この新しい時代は、続く、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」この主イエスの言葉でさらに説明されます。

マリアに今求められていることは、イエスに縋り付くことではないのです。そうではなくて、復活の主イエスの目撃証言を急いで持ち帰ることなのです。その上で、ここで、主イエスが弟子たちを「わたしの兄弟たち」、と言われているところがまず重要です。今、弟子たちは何をしているでしょうか。彼らは、イエスを見捨てて逃げ出して、ユダヤ人に見つからないように潜伏していました。イエスは殺されても自分たちは助かりたい、と隠れていたのです(20:19参照)。この状態の彼らを主イエスは、「わたしの兄弟たち」、と言われてはばからない。これが私たちの主イエスキリストなのです。弟子たちが主イエスを見捨てて逃げ出そうが、裏切ろうが、イエスが彼らを見捨てることはなかった。

 これは、弱い私たちに、これ以上ない慰めではないでしょうか。私たちは、キリスト者でありながら、時としてイエスの弟子であることを口ごもり、当たり障りのないように振る舞ってしまう弱い者たちです。しかし、そのような臆病者たちの主がイエスキリストなのであり、私たちの弱さや貧しさ、欠けの多さは、イエスの弟子であるという資格を奪うことにはならないのです。

 それどころではありません。イエスは、続けて、『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』、と弟子たちに告げるようにマリアに命じられました。これは、簡潔に整理すれば、イエスの父が弟子たちの父であり、イエスの神が弟子たちの神である、ということで、そこに主イエスは行かれるという宣言です。イエスを見捨てて無様な姿を晒していた弟子たちの父は、イエスの父なる神様である、全知全能の生ける真の神、ヤーウェである、それが他ならぬ神の御子であるキリストの言葉で明確にされているわけです。私たちの罪深さや、私たちの弱さ貧しさとは、無関係に、イエスキリストの父なる神様が、私たちの神となってくださる、これこそが旧新両約聖書を貫く神の約束です(エレミヤ33:31〜33参照)。

マグダラのマリアは、復活の主イエスの証言者として、旧新両約聖書を貫く神の契約を実現したイエスキリストの勝利宣言を携えて、もはや用のない墓から主イエスによって派遣されたのであります。

 さて、そして、最後にそのマリアの姿が簡潔に記録されています。「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(18節)」、マリアが弟子たちに持ち帰った最高のグッドニュース、それが「わたしは主を見ました」、これでありました。ここで、「わたしは主を見ました」と告げ」、と記されています、この告げる、という言葉は、やがて福音宣教全体を表現するために用いられる述語となります。福音宣教というのは、よきおとずれであるイエスキリストの復活を証言し、宣教することです。ですから、わたしは主を見ました、この復活の主イエスを最初に証言したマグダラのマリアは、福音宣教者の先駆けであったわけです。ペトロもパウロも、彼女の後から福音宣教に仕えた後発組であったのです。

 暗い過去をもつ女性、それが最初の福音宣教者として他ならぬ主イエスに任命され、用いられた、この事実は偉大です。

 マリアちゃんというお名前のキリスト者は多くいらっしゃいます。我が子がキリスト者として立派に成長してほしい、それがこの名前に込められているように思えます。その場合、キリスト者である親が思い描くのは、ナザレの乙女マリアではないでしょうか。主イエスの母として用いられた純粋なナザレの乙女、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように(ルカ1:38)」、とその身を主にささげた健気な信仰者です。マグダラのマリアを思い描いて、我が子にマリアと名付ける方は、そうはおられないように思います。マグダラのマリアは、過去、癲癇や精神疾患を患い、不道徳な生活に堕落していたからです。

しかし、私の大切なマリアちゃんが、成長するごとに病んでいってしまった、教会を離れてしまった、私の大切なマリアちゃんが、私の手の届かないところに行ってしまった、私の大切なマリアちゃんは、ナザレの乙女マリアのはずが、マグダラのマリアになっていた。そういうこともあり得るわけです。しかし、主イエスはそのマグダラのマリアの名を呼んで招いてくださったのです。そればかりか、そのマグダラのマリアを福音宣教の騎手に任命されたのです。この女性をして、最初に「私は主を見た」と言わしめられたのです。これが私たちの主イエスキリストであります。主イエスの前では、乙女マリアであろうが、マグダラのマリアであろうが、そんなことは全く問題ではないのです。 

 私の大切なマリアちゃん、それは教会の幼子たちであります。この時代、信仰者として成長するのはまさに奇跡であります。思い通りに行かない、言うことを聞いてくれない。しかし、この子どもたちには、一人ひとりに大切なお名前があって、その名前を認めてくださり、呼んでくださるのは、十字架と復活の主であります。ナザレの乙女が、マグダラの女性になろうとも、必ず主が用いてくださるのです。私たちがすべきことは、幼子一人ひとりの名前を呼んで毎朝祈ることではないでしょうか。

 教会史の中でも、とても有名な神学者アウグスティヌスは、若い日に異端に走り、放縦な生活を続けていました。「告白」という彼の魂の遍歴の記録の中に、その哀れな姿が綴られています。

彼にはモニカという敬虔な信仰者である母親がいました。彼女は、毎日我が子が立ち帰るために祈り続け、熱心に教会に通い、そこでも我が子の救いのために祈り続けました。その姿を全て見ていた、その教会の教父であったアンブロシウスは、次のように行ってモニカを慰めたと言います。

 「そのような涙の子が滅びるはずはない(アウグスティヌス「告白」:第三巻12章)」、この言葉の通り、アウグスティヌスは悔い改めて立ち帰り主イエスのために生涯を捧げたのです。モニカが、大切な彼女のマリアちゃんのために流した涙の一滴さえも主が忘れることはなかったのです。