2026年01月04日「神の御子の死」

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聖句のアイコン聖書の言葉

28節 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
29節 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
30節 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
31節 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
32節 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った
33節 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
34節 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
35節 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
36節 これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
37節 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
ヨハネによる福音書 19章28節~37節

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説教の要約

「神の御子の死」ヨハネ福音書19:28〜37

年を跨いで、主イエスキリストの十字架の御言葉が与えられています。先週の礼拝の御言葉の説教は、「十字架の下で」、という説教題が与えられ、主イエスの十字架の下で何が行われていたか、私たちはそれを学んだわけです。その中で非常に大切なこととして、「主イエスは十字架の上で死に、教会は十字架の下で生まれる」、この事実に目が向けられながら、十字架の下で生まれた教会の本質を確認しました。本日の御言葉からは、十字架の上で死なれる主イエスの方に目が向けられ、いよいよ、神の御子の死がここで描かれていくわけです。

 その十字架上での主イエスの死が、「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(30節)」、と記録されています。この「成し遂げられた」、という言葉は繰り返されていて(28節)、特に強調されています。

 実は、これは、十字架の直前の告別説教の後の主イエスの祈りの冒頭で出てくる言葉なのです。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。(17:4)」、この通りです。この箇所を学びました時に確認いたしましたが、この「行うようにとあなたが与えてくださった業」、というのは、十字架の死のことです。ですから、この時点では主イエスは、まだその業を成し遂げてはおられません。しかし、十字架の死を前に、もうすでにその十字架による救いが実現してしまったかのように、主イエスは、「地上であなたの栄光を現しました」、と言われて憚らないのです。つまり、主イエスは、この十字架の直前の祈りの時に、天の父を信頼して、死という最大の恐怖を越えて、永遠の命を展望しているのです。

もし聖書で、この主イエスの姿が示されていなければ、死は永遠に人類の恐怖であったでしょう。死に向かう私たちは、死のタイムリミットに怯えながら歩まなければならなかったはずです。

ですから、ここで主イエスは、永遠の恐怖を永遠の命に変えたのです。これは、必ず死に向かわなければならない私たちに対する大きな慰めです。実に、「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(30節)」、この神の御子の死は、私たちの死の恐怖を取り除き、死の床にあっても尚、そこに希望を与える極めて重要な御言葉なのです。

死ぬべき罪人である私たちが死ぬのは当然です。しかし、永遠の命の君である神の御子が死んでくださったのです。その時、死が終わりではなくなったのです。

あのペンテコステの日になされた説教の中で、ペトロは、「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです(使徒言行録2:24)」、と証言します。イエスの十字架の死というのは、「死に支配されたままでおられるなどということはありえない」死であった。つまり、このイエスの死から、死が終わりではなく、その先に復活の希望が約束される、それどころか死が永遠の命への入り口にさえなったのです。これが神の御子の死によってもたらされた驚くべき逆転なのです。キリスト者が死に臨む時に平安でいられるのは、その向こうに復活が約束されているからだけではないのです。あくまでも、死という現実自体が、神の御子の死によって、恐怖ではなく、恵のプロローグへと変わったからです。死の彼方に希望があるのではなく、死の此方に希望がある、ということなのです。

しかし、その上で誤解してはならないのは、主イエスは確かに死なれた、ということで、後で復活されるのだから、その死が割引される、なんてことは全くないのです。主イエスは私たちの死と全く同じように死なれたのです。

 その十字架上で確かに死なれた主イエスに対して、「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。(34節)」、と聖書は記録します。ここでは、「すると、すぐ血と水とが流れ出た」、という事実が非常に重要で、結論から先に申し上げれば、この「血」は罪の赦し、そして、「水」は永遠の命を象徴するものです(*血はⅠヨハネ1:7、ヘブライ9:22を参照、水はヨハネ4:13、14、7:37〜39を参照)。さらに言えば、聖餐式と洗礼式を指し示すものとも言えます。

ですから、この十字架の場面の御言葉で、「主イエスは十字架の上で死に、教会は十字架の下で生まれる」、それが主イエスの血と水によって、聖餐式と洗礼式が鮮やかに映し出されることで実現しているのです。実に、教会は罪の赦しと永久の命が与えられる場所であります。この二つの決定的な恵が聖餐式と洗礼式で約束され、それを、「血と水とが流れ出た」、この主イエスの十字架上での出来事が指し示しているわけなのです。これこそ十字架の神学の極みといえましょう。

 さて、この主イエスの十字架の死について、「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。(35節)」、とその目撃証言が、毅然とした調子で綴られていますが、冷静に考えると、ここまで強調する必要もないように思えます。「それを目撃した者」だけでなく、主イエスが十字架で死なれたことを目撃した者はたくさんいるはずですし、ローマ兵が検死まで行っています(33節)。イエスが死んだ、これは誰の目で見ても明らかであったはずです。しかし、それでも尚、ここで聖書は、イエスが確かに死なれた、この真実性を強調しているのです。

 昨年のアドベントの期間に、神の御子主イエスにとって死ぬことは復活されるよりもはるかに困難であった、ということを繰り返し確認しました。この世は主イエスの死は簡単に信じます。それは誰でも死ぬからです。この世は、誰でも死ぬが復活した者はいない、という尺度でイエスキリストの復活を否定するのです。しかし、聖書はその正反対の立場なのです。主イエスが確かに死んだということをなんとか信じてもらうために目の色を変えるように「その証しは真実である」、と強調しているのです。

 実に、これは、イエスの復活が確かであることを強烈に裏付けているのではないでしょうか。最初期の教会の時代、主イエスの復活は、同時に500人の人が目撃した出来事であって、もはや疑いえない事実であったのです。しかし、復活が事実である時、それでも疑う者たちは、実はイエスは死んだように見せかけて生きていたとか、仮死状態であったとか、或いは肉体を持っていなかった、そのように説明して納得しようとしました。そこから多くの異端が登場したのが歴史的な事実なのです。だから、聖書は主イエスの復活以上に、主イエスの死が事実であったことを強調しているのです。

 次週から、主イエスが確かに墓に葬られたことが目撃者も含めて証言されていきますが、主イエスの復活に少しでも不確かなところがあれば、むしろ、こんなことしない方がいいはずです。主イエスの復活が確かであった、だから御言葉は主イエスの死と埋葬を必要以上に詳しく描くのです。

主イエスは確かに死なれた、これは愛する人の死に向かい合う上でこれ以上ない慰めです。

キリスト者であっても肉体の死を避けることはできません。そして、その全く変わり果てたその姿は、地上に残された者に、耐えられない悲しみを与えます。しかし、主イエスがその姿となってくださったのです。「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」、とこのようにその死を強調するくらいに主イエスは死んでくださった。死がこれほどポジティブに記録されるのは、死が復活の通過点だからです。私たちの群れからもこれから地上を去るものがあるでしょう。しかし、その死は主イエスキリストに連なる死である、主イエスが死んでくださったから、私たちも死ぬ、とキリスト者はポジティブな視点で死と向き合うことが許されるのです。