2025年11月30日「十字架につけろ〜十字架とアドベント〜」

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十字架につけろ〜十字架とアドベント〜

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 19章13節~16節

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13節 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。
14節 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、
15節 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。
16節 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。
ヨハネによる福音書 19章13節~16節

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説教の要約

「十字架につけろ〜十字架とアドベント〜」ヨハネ19:13〜16

「あなたは皇帝の友ではない」、というユダヤ人たちの叫びに怯えて、ピラトは、「イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた(13節)」、とついに主イエスの判決を下す手続きに入りました。実は、ここで、「裁判の席に着かせた」、と普通に訳されていますが、これはとんでもない事態です。この「裁判の席」という字は、もともとのギリシア語の意味では、裁判長の席を意味するからなのです(*あるいは玉座を示す場合もある。使徒12:21ではヘロデ王の玉座にこの言葉が使われている)。つまりこれは、イエスを王の場所に立たせて、「ユダヤ人の王よ、正しく裁いてくれ」、という嫌味にもなっています。ピラトが、どうしてこのような奇抜ことを始めたのか、それはわかりません。しかし、一貫して言えることは、ピラトがどうしてもイエスを釈放したかった、という事実です。ですから、この演出がピラトの最後の悪あがきであった、と考える以外はないと思います。この後ピラトは、「見よ、あなたたちの王だ」、と少し言い方を変えています。今までピラトは、「見よ、この男だ」、と言って主イエスをユダヤ人の前に引き出してきました。それがここでは、「見よ、あなたたちの王だ」、に変えているのです。本来王が座るはずの一番高いところにイエスを座らせ、ピラトはこれでおしまいにしたいのです。鞭打ちの拷問で深傷を負い、兵士たちのリンチで顔が腫れ上がり、偽物の王冠と偽物の王の衣をまとわされたイエスを、一番目立つ玉座に座らせ、王様に祭り上げて「さあ裁いてみよ」と嘲る、これがピラトの最後のプロデュースなのです。これでもう勘弁してやってくれ、というのがピラトの願いのはずです。

しかし、ユダヤ人たちの執念深さはそれを遥かに超えていて、ピラトのこの最後の演出に対するユダヤ人たちの回答は、「殺せ。殺せ。十字架につけろ(15節)」、でありました。この群衆の多くは、ほんの数日前エルサレムに入城したナザレのイエスを歓迎し、大声で「ホサナ、ホサナダビデの子、イスラエルの王」、と歓喜の声をあげた人たちでした。彼らが、180度その立場を変えて「殺せ。殺せ。十字架につけろ」、とイエスを罵倒し続けているのです。もはやピラトの法廷は場外乱闘を越えて、無法地帯となり、これ以上続ければ暴動にもなりかねない状況であったのでしょう。

その状況でさらに、「祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた」、と記録されています。ユダヤ人の立場は、「イスラエルの王は、主なる神であり、地上に立てられる王は、あくまでもその神の僕であり、民を治める代理人に過ぎない」、ということのはずでした。しかし、今彼らはその立場を放棄して、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた」のです。つまり彼らは今、自らのアイデンティティーを捨ててしまった、ユダヤ人がユダヤ人でなくなってしまったのです。皮肉にも、それこそこれが死刑に処されるべき冒涜罪であり、しかも現行犯なのです。

 しかし、「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した(16節)」、とついにピラトは諦めます。結局ナザレのイエスが十字架につけられる理由は何であったのでしょうか。

聖書はその理由を具体的に示していませんし、そもそもイエスは無罪であったわけですから理由などないのです。「そこで、ピラトは」、とありますように、その理由はこの「そこで」の中に吸収されています。それは、群衆の圧力であったり、「あなたは皇帝の友ではない」、というユダヤ人たちの脅迫であったり、ピラトの裁判官としての資質のなさもあったでしょう。しかし、一つ言えることは、この法廷には何一つ正しい判決がなかった、という驚くべき事実です。最初から最後まで人間の罪がこの法廷を支配し、その中でただ一人正しい方の十字架刑が確定していった、というこれは前代未聞の裁判であったのです。ところが、その法廷の最後にもまた非常に大切な言葉が使われているのです。

「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した」、この最後の「イエスを彼らに引き渡した」、とありますこの「引き渡す」、という言葉です。少し前に確認しましたように、これはギリシア語で「パラディドミー(παραδίδωμι)」と発音する言葉で、共観福音書、そしてこのヨハネ福音書、あるいはパウロ書簡などでも、主イエスが十字架に付けられるプロセスを鋭く表現するために使われています新約聖書中これ以上ない重要な言葉で、実に、この「引き渡す」という字は、主イエスの十字架が、神のご計画に基づくものであることを表現するための述語なのです(例えば、ローマ4:25参照)。つまり、この人間の罪の展示場のようなピラトの法廷で、実は神のご計画が寸分も違わず実現していた、ということなのです。この聖書の理解は極めて大切です。

今年もアドベントに入りまして、改めてこの世の状況を静観いたしますと、まさに今この世は人間の罪の展示場となっています。しかし、その只中で、実は神のご計画が寸分も違わず実現している、と私たちは御言葉に立って信じることが許されているのです。

アドベントというのは、旧約の数少ない信仰者が、この世の支配に苦しみ嘆きながらも約束の救い主を待ち望んだその信仰を覚える期間です。現代の私たちの文脈で言いますと、再び主イエスが来られる終わりの時に希望を抱いてその備えをする時であります。そういう意味で、実はこの期間だけでなく、信仰者にとって、すべての時がアドベントと言える主を待ち望む時間であるのです。ですから、どのような状況であっても尚、そこで神のご計画が寸分も違わず実現している、というこの聖書の立場は、私たちにこれ以上ない平安を与えるのです。

この十字架の場面は、主イエスが誕生された時のエルサレム状況をフラッシュバックさせます。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。(マタイ2:1〜3)」、この通り、エルサレムで最初に伝えられた主イエスの情報は、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」、この言葉なのです。しかし、エルサレムでは、支配者も民も同じように「不安を抱いた」のです。早くもこれは十字架の伏線になっています。特に神の民であったユダヤ人たちは、救い主を待ち望んでいたはずです。しかし、彼らは、「ユダヤ人の王」、と聞いて喜ぶどころか不安になってしまったのです。そして彼らは、「不安を抱いたユダヤ人の王」を今、「殺せ。殺せ。十字架につけろ」、と騒ぎ立てているのです。しかも、主イエスが誕生した時は、異教徒の学者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」、と尋ねましたが、主イエスの十字架の時は同じく異教徒であるピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」、と尋ねたのです。つまり、ユダヤ人たちは待望の救い主として誕生し、この世を歩んで下さった神の御子イエスキリストを最初から最後まで軽蔑し、無視していたわけです(イザヤ書53:3)。実に、ユダヤ人の王として生まれて下さった方をそのユダヤ人が十字架につけたのです。

そして、彼らは、その主イエスを「裁判の席に着かせた」のです。実にこれが終わりの時のこの世の姿ではないでしょうか。彼らは図らずして再臨の主イエスキリストの予形をこしらえているのです。

今や、十字架の主は、裁判の席に、父なる神の右のその玉座についておられるからです。

使徒信条が告白しますように「全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来て生くる者と死ねる者とを裁き給わん」、これが現在の状況です。ですから、私たちの役割は、愚直に十字架の言葉を語り続けることなのです。周りの状況や時代の流れに影響される必要はありません。AIが台頭しようが、チャットGPTの時代になろうが、福音は何一つ変わりません。時が良くても悪くても、イエスキリストの十字架を忍耐強く宣教する、私たちは改めてこの再臨の主イエスの備えを続けるために勤しみたいのです。