2020年10月04日「最後の説教Ⅳ-真実で理にかなったこと」

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最後の説教Ⅳ-真実で理にかなったこと

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 26章24節~29節

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パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」パウロは言った。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」
使徒言行録 26章24節~29節

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説教の要約 「最後の説教Ⅳ-真実で理にかなったこと」使徒言行録26:24~29

私たちは、今続けて使徒言行録の、パウロの最後の説教の御言葉から教えられています。今日はその最終回です。説教の途中で、突然フェストゥスは、「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。(24節)」と大声で叫びパウロの説教を遮りました。

それに対しパウロは、「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。(25節)」と真っ向から反論しました。

さらに、パウロはアグリッパに鉾先を転じ「王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。(26節)」このように問いかけます。この「ご存じ」、という言葉は、理論的に知っている、という意味ではなくて、体験的に知っている、身体で覚えている、そう言う現実的な意味を持つ言葉です。

つまり、言い換えれば、アグリッパ王さえも証人になりうる、ということです。

そして、アグリッパでさえ証人に加えることも可能な、「どこかの片隅で起こったのではない」ことは、言うまでもなく、イエスキリストの十字架と復活です。そして、その復活の主イエスの福音宣教によっていたるところにキリスト者が生まれ、教会が建てられ、もはや誰にも止められない現実です。

このすべてをアグリッパはその目で見て、その耳で聞いて、現実的によく知っているのです。これが「真実で理にかなったこと」でなくて一体何でしょうか。

そのうえでパウロは、「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。(27節)」とアグリッパをさらに追及します。この節は、ギリシャ語の原文では、思います、という言葉は使われておらず、直訳しますと「あなたが信じているということを、私は知っている。」こういう非常にはっきりした表現で、実際、パウロはここで相当厳しくアグリッパを追及しているのです。

 実に、パウロの追及を遮るように、放たれた次のアグリッパの回答が、このパウロの厳しさと、彼が受けたダメージを何よりも物語っています。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。(28節)」、どう考えても国王が囚人に返す言葉ではありません。パウロの言う通り、アグリッパが、キリストの十字架と復活と福音宣教についてよくご存じであった証拠です。

 さて、このように逃げ腰になったアグリッパにパウロはさらに語ります。そして、これがこの説教の最後の言葉となります。「パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。(29節)」

ここで大切なのは、「私のようになってくださることを神に祈ります」、とパウロが「私のようになれ」、と言ってはばからないところです。パウロはやはり囚人です。それに対して、この部屋でパウロを取り囲んだのは、囚人とは正反対の自由人であり、そればかりか総督と国王と町の有力者ばかりでした。「私のようになれ」、とどの口が言えるのでしょうか。

しかし、これが伝道ではありませんか。

どんな私であっても、私のようになってほしいから伝道するのではありませんか。

すなわち、この世で幸福のかけらの一つさえ持たない時も、この世の誰にも負けない幸福が与えられていることを全く疑わない、これがキリスト者であり、ここから伝道は始まるのです。

私がどうであれ、そして何もなくてもキリストがおられるからです。

若さ、自由、富、たとえこのようなものを失っても、キリストをいただいている以上、それ以上に幸福な生き方はない、これが私たちの確信です。これがキリスト教です。

そしてこの世の中において、私たちが惨めであればあるほど、むしろ私のようになれ、この御言葉が立ち上がるのではありませんか。私たちが悲惨であればあるほど、その全てを帳消しにして余りあるキリストの十字架と復活を証できるのではありませんか。その逆転の幅が大きいからです。

実にキリストの救いは、この世の底辺で輝くのです。それを囚人パウロは今証しているのです。

実は、「パウロ、お前は頭がおかしい」この最初のフェストゥスの叫びは、鋭い響きをもっています。彼が言ったように、理性や科学で解決できないキリスト教信仰が「頭がおかしい」と思われるのが、私たちの置かれた、この時代の状況ではありませんか。

そう言う環境に置かれた信徒は、特に契約の子どもたちは、信仰者であることが恥ずかしいと感じてしまうのではないでしょうか。これが、子どもたちが教会を離れていく一番の要因でしょう。

如何でしょうか。そのような経験をされなかった方が一人でもおられましょうか。今までも、これからも。しかし、その時、この世の支配者と富める者を前に、「私のようになれ」、と説教の最後に祈った伝道者の姿を思いだしていただきたい。

この私は、貧しい、愚かである、ポンコツだ、これは恥ずかしながら、「真実で理にかなったこと」です。実にその通り、見ての通りであります。しかし、これはこの世における「真実で理にかなったこと」に過ぎません。もし、これを土台にするのなら、この世の基準が全てです。貧しい者は、貧しい者、ポンコツはポンコツ、罪人は罪人です。生涯をこの法則に縛られて終えていくだけです。

しかし、私たちはもう一つ、聖書における「真実で理にかなったこと」を知っています。

それはキリストの十字架と復活によって、「真実で理にかなったこと」に変えられた私たちの救いの現実です。

古の預言者は、神の使信を謳いました。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から(エゼキエル33:11)」本日私たちはこの言葉で礼拝に招かれました。

しかし、悪人が立ち返って、そのまま救われるのは、「理にかなったこと」でしょうか。いいえ、そんな馬鹿な話はありません。悪人が、裁きを受けて、その罪を償うことこそ「理にかなったこと」です。

しかし、キリストの十字架と復活によって、それがひっくり返ったのです。逆転したのです。「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」、この旧約の預言が、キリストの十字架と復活で実現したのです。その時、罪人がそのまま救われるという大きな矛盾が、「真実で理にかなったこと」に変わったのです。これが十字架の福音です。そして、この神の愛だけに私たちの救いがあるのです。

この神の愛に立つその時、「私のようになれ」、と私どもも言えるのではありせんか。確信と喜びを携えて伝道が出来るのではありませんか。

これが、キリスト者である私どもの、最も真実で理にかなったことであるからです。

「私のようになれ」、それは、キリストの十字架と復活によって救われ、立ち帰った私たち罪人の勝利の宣言です。