2025年10月05日「飲むべき杯」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
2節 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
3節 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
4節 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
5節 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
6節 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
7節 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
8節 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
9節 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
10節 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
11節 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
ヨハネによる福音書 18章1節~11節

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説教の要約

「飲むべき杯」ヨハネ18:1〜11

先週から18章の最初の段落であります1〜11節までのいよいよ主イエスが十字架に付けられるために引き渡される場面を2回に分けて丁寧に読み進めています。先週は、1〜6節までを中心に学びましたので、今週は7節以下から教えられたいと願います。

「だれを捜しているのか」、と繰り返し問いかけられた主イエスに対して、「ナザレのイエスだ」、と全く同じ回答をした兵士たちに、主イエスは、「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい(8節)、と言われます。ここで、「この人々」と呼ばれていますのは、主イエスと共にゲッセマネの園にいた弟子たちです。この場面は、マタイとマルコ福音書では、弟子たちが積極的に逃げ出してしまったことが記録されています(マタイ26:56参照)。おそらく、主イエスに、「この人々は去らせなさい」、と言われるまでもなく、弟子たちは逃げる準備をしていたのでありましょう。

そこで、福音書記者のナレーションが、「それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。(9節)」、と入ります。

 このゲッセマネの暗闇に、「だれを捜しているのか」、という主イエスの声が2回響き、兵士や役人たちは、「ナザレのイエスだ」、と回答を変えませんでした。すかさず聖書は、「イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた(5節)、と記録していますので、彼もまた、「イエスは誰か」の質問に対して、繰り返し「ナザレのイエスだ」、つまり「イエスはただの人間だ」、という立場を取ったのです。

しかし、「だれを捜しているのか」、というこの主イエスの声は、他の弟子たちの耳にも響いたはずです。すなわちこの暗闇で、主イエスの弟子たちもまた、「イエスは誰か」の回答が求められているのです。しかし、彼らは逃げてしまった。つまりその回答は保留されたのです。ところが聖書は、その弟子たちの弱ささえ赦しているのです。この弟子たちの弱さは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」、この主イエスご自身の言葉の実現である、と見逃すのです。

 ここに主イエスの憐れみが溢れています。主イエスは、弟子たちの弱さをよくご存知で、彼らを許し、立ち帰る時間を与えてくださったのです。やがてこの弟子たちは、主イエスの十字架と復活、そしてペンテコステの後の福音宣教の時代に悔い改めて立ち帰り、聖霊に導かれて、先頭に立って主イエスのために勤しむのです。

これは、全ての信仰者にとってこれ以上ない慰めではないでしょうか。信仰者にはそれぞれ時があるのです。逃げ出してしまう時もあれば、挫けてしまう時もある、信仰しているのか、いないのか、自分でもよくわからないそういう日々さえありましょう。しかし、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」、この主イエスの言葉が、私たちにもまた実現する以上、私たちは、必ず最後まで守られ、最もふさわしい時に主イエスに用いられ、信仰を全うすることが約束されているのです。暗闇で恐れて、逃げ出してしまった弟子たちの姿に自分を重ねられる方は少なくないはずです。しかし、それを非難するどころか、むしろポジティブに見てくださっている主イエスが、私たちの飼い主であり、この主の憐れみこそが私たちの平安の拠り所です。

「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」、なんという恩恵でありましょうか。私たちこの主イエスの約束を心の中に刻みたいのです。

 しかし、ここで全く違う行動をとった弟子が一人いました。「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。(10節)」、一般的に、このペトロの行動は、「彼らしい愚直な姿である」等、あまり否定的には見られないように思いますが、ここでは、シモン・ペトロが剣を持っていたところがすでに問題ではないでしょうか。彼は、「剣を取る者は皆、剣で滅びる(マタイ26:52)」、この主イエスの言葉に反して剣を隠し持っていた。しかも、彼もまた祈りの場所であったゲッセマネに剣を持ち込んでいた。

祈りの場所にどうして剣が必要なのでしょうか。それは、祈りよりも剣の方が頼りになると思ったからです。つまり、ゲッセマネの園は、ペトロにとっても祈りの場所ではなかったのです。ユダは、祈りの場所を裏切りの場所に変えた。ペトロは祈りの場所に争いの道具を持ち込んでいた。両者には共通点さえあるのです。

そこで主イエスは「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。(11節 )、と言われます。主イエスは、「剣をさやに納めなさい」、とまずペトロに言われ、その上で、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」、と続けます。これは、ご自身の意志であると同時に、実はペトロに対する問いかけにもなっています。

 この杯というのは具体的に十字架を指します。共観福音書でも、この杯という言葉を主イエスの十字架を比喩するものとして記しています。特に、ゲッセマネの祈りの場面の「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。(ルカ22:42)」、ここで主イエスが言われています「この杯」という言葉はそのまま十字架の比喩です。

 ですから、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」、と主イエスがペトロに問うとき、主イエスはペトロもまた十字架で死ぬことを暗示しているのです。

 しかし、それにも時があるのです。主イエスは、ペトロがこのすぐ後にご自身を裏切ることをすでに明確にされていました。「シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。(13:37、38)」、この通りです。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」、とこのようにペトロの否認は予告されていたわけです。しかし、あらためて読み直してみますと、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」、とこのようにも主イエスは言われています。

 ですから、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」、と主イエスがペトロに言います時、主イエスは、他の弟子たちと同様に、ペトロの弱さもまたよくご存知で、彼を許し、立ち帰る時間を与えてくださっているのです。三度知らないと主イエスを裏切っても、後でついて来ればよろしい、これが主イエスの憐れみなのです。実に、神のご計画というのは、私たちの弱さや貧しさ、そして愚かさまで配慮されて立てられているのです。

 主なる神は、ぐずぐずしている私たちを急かすのではなく、忍耐を持って私たちが立ち上がる時まで待ってくださっているのです。愛する、というのはそういうことではないでしょうか。大切な我が子に「早くしなさい」とは言えません。できるまで待ってあげる、それが親の愛ではないでしょうか。自分以上に我が子を愛しく思えるのであれば、子のために自分の時間が削られることなど大した問題ではございません。

 「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」、それは、神の憐れみと愛とご配慮の中で、最もふさわしい時に与えられる杯なのです。