2025年09月14日「一つということ〜十字架のパーフェクト〜」
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一つということ〜十字架のパーフェクト〜
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 17章20節~23節
聖書の言葉
20節 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
21節 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
22節 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
23節 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
ヨハネによる福音書 17章20節~23節
メッセージ
説教の要約
「一つということ〜十字架のパーフェクト〜」ヨハネ17:13〜19
本日の御言葉から、「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。(20節)」、と主イエスの祈りの対象が、主イエスの弟子たちが用いられて誕生するキリスト教会の信徒にされていきます。そして、その人々に対する主イエスの祈りが、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。(21節)」、と続きます。
ここでは、信仰者が一つになることが祈り求められています。しかもその一体性は、「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」、という天の父と御子イエス様との一体性を意味しています。これは、非常に大切な真理です。今、主イエスは真の人となって地上におられるからです。その肉体は、私たちと全く同じ弱さをもった、死を経験しなければならない身体で、実際この直後主イエスは十字架で殺されます。しかし、父なる神様は天におられ、その弱い肉体や死とは最も遠いお方のはずです。ところが、その現実にあって主イエスは、「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」、と言われてはばからないのです。つまり、私たちと同じ肉体をもって、実際この直後十字架で死なれる主イエスは今、天の父と一体である、と言うことなのです。
これは弱い肉体でも天の父と一体となることが許されるという驚くべき事実を証言しています。
しかも、「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」、と主イエスが祈られる時、その父と御子との一体性の中に私たちも与るようになると言うことなのです。
これは、私たち信仰者にとってこれ以上ない慰めではないでしょうか。今地上にある私たちが、天におられる父なる神様と主イエスキリストと一体であるということだからです。
私たちは、キリスト者であっても地上を歩む以上、必ず死別を経験し、また時間的にも物理的に越えられない距離があります。しかし、「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」、これは、その私たちの地上的な限界を突破する約束になるのです。
実に、私たち信仰者の一体性と言うのは、天と地を貫き、時間さえも凌駕する天の父とキリストとの永遠の交わりに取り込まれることなのです。ですから、天に召された大切な信仰者たちと私たちは決して離れ離れではなく、むしろ一体なのです。地上の私たち、そしてすでに天に召された信仰者の両者の関係を端的に言えば、「生活の場所を変えてキリストに結びつけられて生きている」、そういう関係であるわけです。それは、地上で生きているか天上で生きているかの違いにすぎないのです。
続けて、主イエスは、この一体性の真理を根拠に「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。(23節)」、と祈られます。ここではついに「彼らが完全に一つになるためです」、と言われています。つまりパーフェクトです。17章のこの主イエスの祈りの御言葉に入った時に触れましたが、実はこの「完全に」という字は、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。(4節)」、この「成し遂げて」、この言葉と全く同じ字です。そして、これはこの後、主イエスが十字架の上で息を引き取る前に言われた「成し遂げられた(19:30)」という言葉とも同じであることを以前確認しました。つまり、この「彼らが完全に一つになるためです」、と言われています「完全」というのは、この世的なパーフェクトではなくて、十字架のパーフェクトであり、神のパーフェクトに他ならないのです。
そうは言いましても、どこをとっても不完全である私たちの一体性がパーフェクトになるなんてことはどう考えても不可能です。それは思想レベルでも説明できません。しかし、それを実現してしまうから、十字架のパーフェクトであり、神のパーフェクトなのではありませんか。
主イエスが十字架で息を引き取られる直前に言われた「成し遂げられた」、という十字架のパーフェクトにおいてパーフェクトであったのは主イエスお一人だけでした。人間の罪さえ用いられて、主イエスは十字架で殺され、しかし、それによって私たちの罪が帳消しにされたのです。つまり、十字架のパーフェクト、神のパーフェクト、というのは、私たち人間の罪などではびくともしない、いいえ、その罪さえ救いに変えてしまう完全さなのです。暗闇を光に変える、そういうパーフェクトなのです。
実に、十字架のパーフェクトというのは、事務的で冷静な機械やAIのような完全さではなく、神の愛によって実現した完全さなのです。そうである以上、十字架のパーフェクトの前に大切なのは、私たちがミスを犯さないことではなくて、私たちが悔い改めて神の愛を知ることなのです。
ですから、主イエスは最後に「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」、と祈られるわけです。
これは、そのままこのヨハネ福音書の中心に響く神の愛を謳ったキリストの言葉と同じです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)」、この通りです。両方の箇所で全く同じ神の愛が謳われているのです。そして、この神の愛を世に宣教するために私たちは用いられているのです。ですから、この23節の前半で、主イエスが言われた、「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」、この信徒の姿は、これ以上ないくらいに大切なのです。簡潔に言えば、これは、私たちが十字架のパーフェクトによって「一つになる」、ということです。その場合、私たちの不完全は問題ではないのです。むしろ私たちの弱さや欠点、愚かささえも益にしてしまうのが十字架のパーフェクトであるからです。ですから、大切なのは、私たちが不完全であっても、いつも悔い改めて主イエスが言われた通り互いに愛し合い、赦し合う、神の言葉に忠実に神の愛を宣教する、このことなのです。一言で言えば私たちが神の言葉に立つこと、これなのです。
このヨハネ福音書の執筆者が所属していた信仰者のサークルを通常「ヨハネ学派」と呼ぶのですが、そのヨハネ学派によって執筆されたヨハネの手紙は、このヨハネ福音書と同じ立場で、信仰者の一致を謳っています。「しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。(Ⅰヨハネ2:5)」、この「神の愛が実現しています」、とあります「実現する」、という字が、ヨハネ福音書の方で「完全に」、あるいは「成し遂げる」と訳されている同じ字で、十字架のパーフェクトを示す言葉です。
「神の言葉」によって、「神の愛が実現して」、その時、私たちは「神の内にいる」のです。これではないでしょうか、「完全に一つになる」、というのは。全て「神の」、なのです。「神の言葉」、「神の愛」、「神の内」なのです。私の言葉ではないのです。私の愛でもないのです。私の内には何もないのです。「一つということ」、それは全て「神の」、になることなのです。そこに十字架のパーフェクトは実現いたします。
今日から、本格的にこの新しい会堂での教会活動がスタートしました。ここは私たちの会堂ではなくて、神の会堂です。私たちの宣教ではなくて、神の宣教です。私たちの命も富も全て神のものです。禍も、悲しみも、死も、全て神に委ね、幸も喜びも全て主に捧げようではありませんか。