2025年08月17日「救いの仕組み〜キリストの「今」〜」
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救いの仕組み〜キリストの「今」〜
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 17章6節~8節
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聖書の言葉
6節 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
7節 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
8節 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
ヨハネによる福音書 17章6節~8節
メッセージ
説教の要約
「救いの仕組み〜キリストの「今」〜」ヨハネ福音書17:6〜8
これは先週確認したことの延長ではありますが、本日の御言葉、そしてこれから先の御言葉を学ぶ上で、あらかじめ確認しておきたいのは、語られています動詞の時制の問題なのです。
ここで、主イエスが、「わたしは御名を現しました(6節)」、と言われていますこの「現しました」、と言う動詞の時制は過去形です。しかし、主イエスが、天の父の「御名を現す」、すなわち、天の父のその御存在を救われる人々に理解させるのは、主イエスの十字架と復活によって、罪の赦しと永遠の命が与えられることが確定した後のことです。ところが、ここで主イエスは、十字架の死の前の段階で、それがすでに実現してしまったかのように言われているのです。
これを解く鍵は、信仰である、と先週申し上げました。真の信仰は、この世のあらゆる苦難を超えて、それどころか、死という最大の恐怖も超えて、永遠の命に生きる力なのです。ですから、本日の御言葉とそれ以降で使われている動詞の時制は、この信仰によってのみ説明できる主イエスの立場であります。十字架の死を前に、主イエスはすでに罪人の救いと復活の命の実現を確信して、このように祈っているのです。
さらに、「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。(7節)」、この最後の、「彼らは知っています」、この時制は完了形です。ですから、この部分は、「彼らは知っていて今に至っている」、というニュアンスです。もちろん、この時点では、この主イエスの弟子たちの誰一人知る者などいなかったはずです。しかし、ここでは、「今、彼らは知っています」、と「今」という言葉さえ追加されているのです。この「今」という言葉が、本日の御言葉のキーワードです。そして、この「今」というのは、主イエスが、この祈りをおささげしている「今」以外ではございません。まだ、誰一人、その真理を理解する者がいない「今」という現実の中で、主イエスは、「彼らは知っています」、と祈って憚らないのです。
おそらく、この祈りを聞いていた弟子たちは、ちんぷんかんぷんであったはずです。しかし、主イエスの十字架と復活、そしてペンテコステの日から弟子たちが聖霊に満たされることによって、この主イエスの祈りの意味が理解できるようになったわけです。
つまり、主イエスが、この祈りをおささげしている「今」というのは、福音宣教の時代に実現する「今」であり、つまり、時を越えて世の終わりまで、この主イエスの祈りの意味が理解できた信仰者にとっていつでもそれは「今」になるのです。ですから、この「今」を定義すれば、福音宣教の歴史の中で、主イエスの救いが罪人に適用される瞬間と言えましょう。このヨハネ福音書で、繰り返し主イエスが「私の時」と呼んだ十字架と復活によって実現するキリストの時は、このキリストの「今」の根拠なのです。
実に、「今や、恵の時、今こそ、救いの日(Ⅱコリント6:2)」、とパウロがコリント書で叫んだ「今」、というのは、主イエスが言われているこの「今」であり、それは、罪人が救われて主イエスを知る「今」、それは時を超えた「今」であり、常に起こりうる「今」に他ならないのです。この時点では、誰一人、知る者がいなかった「今」は、この後、数えきれない罪人が救われる「今」へとその姿を変えていったわけです。ですから、「なぜなら」、と続いてその理由が述べられる次の節が重要です。まず、ペンテコステ以降の福音宣教の時代に、この弟子たちを中心とした信徒の間で、この主イエスの「今」が、実現していったからです。「なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。(8節)」、ここでは、7節で、「今、彼らは知っています」、という主イエスを知るための救いの仕組みが簡潔に描かれていて、その救いの仕組みにおいて大切なのは、「わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて」、というこの「言葉」の伝達のプロセスです。主イエスの「今」が、実現する、その中心にあるのがキリストの言葉なのです。
また、この「言葉」という字は、そのまま出来事とも訳せます。言葉=出来事、これが聖書の理解です。神の言葉は、むなしく地に落ちることはなく、必ず出来事となる(イザヤ書55:8〜11を参照)、というのが聖書の立場だからです。その視点から理解できるのは、「わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え」、とあります、主イエスが天の父から受けた言葉、というのは、父なる神のご計画に基づいてなされるこの地上での主イエスキリストの出来事で、具体的に、それは、主イエスの十字架と復活です。この主イエスの十字架と復活が、この直後歴史的な出来事として弟子たちの目の前で実現し、彼らは、それを受け入れることになるわけです。それによって結果的に、「わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じた」、ということ、簡潔に言い換えれば、「主イエスが神の御子である」、ということを弟子たちは信じたわけです。
キリストの言葉を受け入れる、というのは、十字架と復活というキリストの出来事を受け入れることとイコールです。十字架の言葉というのは、歴史の中で実現した主イエスの十字架の出来事に他ならないのです。そして、その十字架の言葉が受け入れられた時、そこで主イエスキリストの「今」が具体化され、罪人が死から命に導かれる決定的な救いの出来事が実現するのです。
この、「言葉」の伝達のプロセスによる救いの仕組みは、使徒パウロがコリント書で、「最も大切なこととして」書き記しています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。(Ⅰコリント15:3〜6)」、この「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」、というキリストの十字架と復活の出来事の証言の継承、これが、というキリストの「言葉」の伝達のプロセスであり、福音宣教そのものなのです。福音宣教における救いの仕組みは、キリストの言葉、すなわちキリストの十字架と復活を証言し、それが受け入れられるところにあるのです(ローマ書10:17も参照ください)。その時、主イエスキリストの「今」は、実現するのです。
しかし、キリストの「今」は、実現してそれで「めでたし、めでたし」では終わりません。罪人に、主イエスの「今」が、実現した以上、彼はキリストの「今」に生きるものとされるからです。キリストの「今」というのは、罪人が救われる一瞬だけの出来事ではないのです。「わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」、前述の通り、これはすなわち主イエスが神の御子であることを信じることです。つまり、イエスキリストの十字架を受け入れて、罪人に主イエスの「今」が実現した以上、必然的に彼は、神の御子イエスキリストに支配されるのです。救いの仕組みというのは、罪人が救われるまでの工程だけでなく、それ以降の全生涯に適用される神の導きであるのです。神が救いに選ばれた者は、必ず御子主イエスの十字架に贖われ、そして、必ず聖霊にその十字架の救いを適用されて永遠の命へと導かれるのです。罪人にキリストの「今」が実現した瞬間は、これ以上ない恵の時でありますが、実はそれからが重要でもあるのです。
大切なのは、私たちの今が、いつもキリストの今になっているのか、いないのか、ということです。
本日一人の姉妹が私たちの教会の執事に任職されました。これは私たちの教会だけでなく、神の国の全体におきましても大きな喜びです。この姉妹が、私たちの教会に加入されてからちょうど10年が経ちました。信仰者である以上、必ず多くの苦難が与えられる、それは聖書がはっきりというところであります。この姉妹も、この日まで、人に語ることのできない苦難や、悲しみのようなものをたくさん抱えながら生きてこられたはずです。幼い日から、今までのことを思い巡らしながら、この日を迎えられたのでありましょう。しかし、確かに、彼女にキリストの「今」が実現し、救いの中に入れられ、そして、そのキリストの「今」に現在もなお生かされ、このような導きが与えられたわけです。教会で務めが与えられる、というのはキリストの「今」がその信仰者に実現している何よりの証拠です。
この姉妹のこれからの信仰の歩みに、そして、私どもの教会の歩みに、常にキリストの「今」が実現し、この場所が救いのために用いられることを願います。