2025年08月10日「栄光の大きさ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
2節 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
3節 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
4節 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
5節 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
ヨハネによる福音書 17章1節~5節

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説教の要約

「栄光の大きさ」ヨハネ福音書17:1〜5

本日は、先週に引き続き、17章1〜5節までの御言葉が与えられていまして、前回触れることが出来なかった部分を中心に学びたいと思います。

主イエスは、3節までで、永遠の命の何たるかを、また、永遠の命は、それに最も相応しくない者に与えられる約束である、ということを明確にされた上で、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。(4節)」、と祈りを続けられます。

 繰り返し申し上げてきたように、この主イエスの祈りは、十字架の直前の最後の晩餐と呼ばれる主イエスの食卓の最後にささげられたものです。しかし、ここで主イエスが、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて」、と祈られています「業」というのは、今までこの地上を歩んできて行われてきた主イエスの御業だけでないことは明らかです。むしろ、これは、これから主イエスが実現する十字架のことを言われているようです。

それは、この「成し遂げて」、という字が、この後、十字架の場面で繰り返し使われる言葉であることからも裏付けられます。「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。(19:28)」、この「成し遂げる」、という字が、本日の箇所で使われている、「成し遂げて」、という字と同じ言葉です(この直後の19:30でも同じ字が使われています御参照ください)。ですから、主イエスは十字架の死を前に、もうすでにその十字架による救いが実現してしまったかのように、「地上であなたの栄光を現しました」、と言われて憚らないのです。

 しかし、どうしてそのように言われることができるのでしょうか。これから主イエスは、十字架で苦しまなければならないはずです。実際、血と汗と涙を流し肉体の死を経験し、主イエスは墓に葬られるのです。主イエスは真の人となってこの地上に生まれてくださり、私たちと同じ肉体を持って生きてくださったからです。しかし、これ以上ない苦しみと恐怖を前に、主イエスは、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」、といわれるのです。どうしてでしょうか。

 この難問を解く鍵は信仰なのです。信仰は、この世のあらゆる苦難を超えて、死という最大の恐怖も超えて、永遠の命を展望する力なのです。いいえ、もはやこれは展望ではない。永遠の命を先取りして、その命に生きる力と申し上げた方が正確でしょう。主イエスは天の父を信頼し、全てをその御手にお委ねすることで、死を前に復活の命に生きているのです。今まで他の誰も知らなかった真の命を、神の御子であるがゆえに主イエスだけは知っていたからです。それゆえに、死を前に復活の命を確信し、すでにその命に生きている、という今まで誰一人知らず、誰一人聞いたこともないような立場で、主イエスはここにおられるのです(10:18も参照してください)。

 信仰者といえども、この地上においては苦難がございます。痛みも多くございます。信仰していようがいまいが、それは変わりありません。私たちもこれから先、体は衰え、あるいは重い病を患うこともありましょう。その先に必ずあるのは肉体の死です。しかし、信仰者である以上、どのような苦難や恐怖が目の前にありましても、その状況で、永遠の命に生かされている現実を疑い得ないのです。

これが、ここで主イエスが示された信仰の力です。もしこの主イエスの姿が示されていなければ、死は永遠に人類の恐怖であったでしょう。主イエスは永遠の恐怖を永遠の命に変えたのです。

 これは、ラザロの復活の時に主イエスがその姉妹に約束した永遠の命の約束にもその根拠があります。「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(11:25、26)」、このキリストの永遠の命の約束です。「このことを信じるか」、と問われて、わたしたちが信じる瞬間に、わたしたちの目の前には全く違う地平が開けるのです。それは永遠の命の地平であり、終わりのない風景です。その途上にある山や谷は、その彼方にある輝きの比ではないのです。そればかりか、その輝きの中ですでに生かされている。わたしたち信仰者が見ている風景というのはそういうものではないでしょうか。この眺めが与えられていますのが、わたしたちキリスト者の特権であり、喜びと平安の根拠とも言えましょう。

 そして、この風景は、エフェソ書でさらに鮮やかに描かれています。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。(エフェソ2:4〜6)」

この信仰を謳っているエフェソ書を執筆したパウロは、当然、その肉体においては地上にいるのです。しかも今、鎖につながれて牢獄の中にいるのです。よりによって最悪の状況です。しかし、どうでしょうか。「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」、とすでに永遠の命に生かされて、天の王座にまでついていることをパウロは疑わないのです。むしろそれが当然とばかりにここで宣言しているのです。つまり、真の信仰は牢獄さえも「天の王座」にしてしまうということなのです。パウロはこのすぐ後殉教しました。パウロに続いて多くの信仰者が、その信仰のゆえに拷問を受け、殺されていきました。しかし、その同じ信仰のゆえに、どこにあろうとその場所が、「天の王座」以外ではなかったのです。

 現在私たちは、信仰のゆえに殉教することはないでしょう。それでも、信仰のゆえに辱めを受けたり、孤独を感じることはいくらでもありましょう。しかし、それが一体何でしょうか。むしろ喜ぼうではありませんか。他でもないその場所が、私たちの「天の王座」であるからです。

 さて、主イエスは祈りを続けられます。「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。(5節)」、このヨハネ福音書の執筆者にとって、この節の主イエスの祈りがいかに大切な真理であったか、それはこのヨハネ福音書の最初の言葉を見れば明確です。そして、それは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(1:1)」、このロゴス讃歌と呼ばれる御言葉です。これは、主イエスが直接語られた言葉ではなく、この福音書記者が栄光の主を最も簡潔に、最も正確に表現した信仰告白がこれです。つまり、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」、これは思想ではなくて、主イエスのこの祈りと、十字架と復活の事実から導き出された真理であり、栄光の主イエスそのお方なのです。

 最後に、ここで、「世界が造られる前に」、と記されています「世界」、という字に注目したのです。

 この世界という言葉は、新約聖書が記されたもともとのギリシア語で、宇宙を意味する コスモス(κόσμος)という字で、これは、秩序整然とした統一体として無限に広がる宇宙です。

 主イエスの十字架刑というのはパレスチナの片隅で起こった人類の世界史の中でもごくわずかな出来事です。しかし、それは、全宇宙に響き渡るこれ以上ない歴史的な事実である、ということなのです。主イエスの十字架というのは、「世界が造られる前に」、主イエスが「持っていたあの栄光」、への序章であるからです。私たちに与えられる永遠の命というのは、この栄光に基づくのです。無限に広がる宇宙をひっくり返すような偉大な栄光、それが主イエスの栄光であり、私たちの永遠の命の根拠なのです。

 今、パレスチナの片隅で弱い者たちの命が簡単に奪われています。しかし、そういう場所にこそ主イエスの栄光があり、そこには宇宙大の圧倒的な慰めと、逆に宇宙大の恐ろしい報復が用意されていることは間違いありません。

 わたしたちが福音宣教に遣わされているこの町は、パレスチナの片隅以上に小さく取るに足らない場所です。私たちの生涯もまことに真に小さく、歴史の1ページ、いいえ、一行にも一文字にさえならない全く取るに足らないものです。しかし、十字架の栄光というのはその最も小さな場所にこそ輝く、これが聖書の約束です。小さなところにこそ、むしろそこにだけ神の栄光は輝くのです。