2025年08月03日「栄光の時がきた」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
2節 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
3節 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
4節 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
5節 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
ヨハネによる福音書 17章1節~5節

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説教の要約

「栄光の時がきた」ヨハネ福音書17:1〜5

 繰り返し確認してまいりましたように、十字架の直前に語られた主イエスの告別説教は、先週を最後に16章で終わりまして、ここからの17章では説教の後の主イエスの祈りが記録されています。

本日与えられた1〜5節までの箇所は、この主イエスの祈りのプロローグ部分とも言えまして、その点でも重要ですから、今週と来週の2回に分けて丁寧に教えられたいと願っています。

 ここで、まず主イエスは、「父よ、時が来ました」、と祈りを始められました。この「時」、というのは、今まで何度も確認してまいりましたように、十字架から始まる主イエスの救いの御業が実現する「時」であります。その上で、主イエスは、「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」、と続けます。ここでは、「栄光」という言葉が繰り返されていますことが重要です。

これも何度か確認してきましたが、このヨハネ福音書が、「栄光」と言いますとき、それは、十字架から始まる主イエスの救いの御業全体を意味します。

そして、これは、ヨハネ福音書独特の神学的な理解でありまして、通常、十字架は、主イエスが最も低いところまで謙って下さった低く貧しい状態を指します。パウロをはじめ、他の聖書記者は、十字架までを主イエスの低い状態、そして復活以降を主イエスの高い状態、とするのに対して(例えばフィリピ2:6〜8等参照)、ヨハネ福音書は、十字架から主イエスの高い状態、すなわち「栄光」、と呼ばれる状態がすでに始まっている、とするわけなのです。しかも整理してみますと、主イエスが求めている、「あなたの栄光」、すなわち天の父なる神様の栄光は、そのまま、主イエスに与えられる「栄光」であることは明らかです。つまり、父の栄光=御子主イエスの栄光、という公式が成り立つわけで、天地万物の創り主、全知全能の父なる神の栄光は、御子の十字架である、ということです。これによって、天の御父がどのような方であるかが、はっきりと見えてくるのではないでしょうか。

 「栄光」という言葉を言い換えれば、栄誉であり、栄冠であり、成功でもあります。十字架刑という最も恥ずかしくて愚かな死はどう考えても失敗です。しかし、それを神は成功と見られるのです。どうしてでしょうか。それは、神は愛であるから、としか説明のしようがないのです。神の愛が、失敗を成功に変えてしまったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された(3:16)」、というのは結局そういうことです。最も大切な独り子が、十字架で惨たらしく殺されてしまうのはどう考えても失敗ですが、それによって多くの罪人が救われる方が、神にとっては成功であったのです。

つまり、独り子の命と罪人の命が天秤にかけられ、罪人の方が重かったと言う以外はないのです。この計り知れない、そして一方的な神の愛が、神の栄光の源にある、これが私たち罪人にとってどれほどの慰めとなるでしょうか。神の栄光というのは、壮大で煌びやかなものではないからです。そうではなくて、取るに足らない、全く無価値なものに対する愚かなまでの愛、それが神の栄光であるからです。そうである以上、わたしたちがどんなに弱くても、愚かでも、罪深くても、それは決定的な問題ではないのです。その私を神は愛してくださるからです。

 さらに、主イエスは続く祈りの中で、その命について言及され、定義されていきます。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。(2節)」、ここで、「すべての人」、という表現がありますが、この部分はギリシア語の本文を直訳しますと「全ての肉体」、となります。そして、ギリシア語で頻繁に使われる肉体という字は二種類ありまして、それは「ソーマ(σῶμα)」という字と「サルクス(σάρξ)」という字です。多くの場合、救われるための肉体には、「ソーマ」という字が使われ、そして人間の滅ぶべき弱い肉体の方に「サルクス」という字が使われます。そして、実は、ここでは、弱い人間の体を指す言葉である「サルクス」という字の方が使われているのです。ですから、ここで言われている「すべての人」というのは、やがて朽ちていく私たち人間の肉体であり、死に定められた罪人を指す言葉なのです。これは驚くべきことです。もともとのギリシア語で弱い人間の肉体を意味する「サルクス(σάρξ)」という字は、最も「永遠の命」から遠い言葉だからです。ですから、「永遠の命」は、最もそれに相応しくないものに与えられる、ということが、ここで記されているのです。

私たちは、改めて「永遠の命」がどのようなものであるかを理解したいのです。それは、私たちが死んだ後の約束に過ぎないのではなくて、あるいは、私たちがよくわからない霊魂のようなものでもないのです。「永遠の命」は、死んでみなければわからない、という謎の命でもないのです。そうではなくて、「永遠の命」は、この私たちの弱い肉体に今現在与えられている神の驚くべき約束なのです。

ですから、続いて「永遠の命」の何たるかが、主イエスの口を通して明らかにされます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(3節)」、この節に永遠の命が定義されている、と申し上げてよろしいでしょう。ここでは、「知る」という言葉がとても大切です。聖書的に「知る」と言うのは、単なる知識や知恵のようなものとは違うからです。最も簡潔に言えば、それは、「人格的な交わりによって経験される事実である」、と言う理解です(創世記4:1参照)。ですから、この「知る」、というのは、まるでひとつ屋根の下で夫婦や親子のように、父なる神、そして主イエスと共に暮らし、親しく交わることに他ならないのです。

これは、これ以上ないスケールで永遠の命を謳うヨハネ黙示録の御言葉で鮮やかに証言されています。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。(ヨハネ黙示録21:3、4)」、これが永遠の命です。私たちのうちには永遠の命などありません。あるのは弱さと朽ちていく肉体くらいです。しかし、「神が人と共に住み、人は神の民となる」、だから私たちは永遠の命にありつけるのです。永遠の命に生かされるのです。永遠の神と暮らすから、私たちも永遠なのです。

 今日から、新しい会堂で礼拝をおささげすることが許されましたが、まだ完成はしていません。トイレも仮設トイレです。8月の末には全て完成し、整った環境で礼拝をおささげすることができるでしょう。しかし、大切なのは、目に見るこの会堂が完成することではありません。それでもまだ、私たちの会堂は未完成だからです。ここが神の住まいになっているのか、この場所にキリストが共に住んでくださっているのか、新しい歩みを始めた今、私たちはそれを問いたいのです。水道が引かれて、トイレが使えるようになっても、神の住まい給う、目に見えない教会の方が、いつまでも仮設トイレ状態であるならばそれは本末転倒です。私たちは信仰の目を開いて私たちの姿を点検したいのです。

私たちの教会は、「神が人と共に住み、人は神の民となる」、この永遠の命の群れとしてこの世に扉を開いていますでしょうか。そうである以上、必ず、「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」、この御言葉が、この新しい会堂で実現していく約束となりましょう。教会こそは永遠の命の入り口なのです。