2025年07月27日「告別説教の結論Ⅱ勝利の主に続け」
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告別説教の結論Ⅱ勝利の主に続け
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- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 16章25節~33節
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聖書の言葉
25節 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
26節 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。
27節 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
28節 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
29節 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。
30節 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
31節 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。
32節 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
33節 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書 16章25節~33節
メッセージ
説教の要約
「告別説教の結論Ⅱ勝利の主に続け」ヨハネ16:25〜33
主イエスの告別説教が終わる直前に弟子たちは、「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。(29、30節)」、と言い出しました。この告別説教の結論に向かう中で、主イエスは、「その日には」、という表現を繰り返されてきました(23、26節)。この「その日」、というのは、主イエスの十字架と復活、そしてペンテコステの出来事で聖霊が使徒たちに降った後の福音宣教の時代です。
ところが、ここで弟子たちは、「今、分かりました」、と「その日」が、早くもここでやってきてしまっているかのように理解して、主イエスに向き合っているのです。主イエスが予告されてきた「その日」が、ここでは弟子たちにとっての「今」になってしまっているわけです。著しい勘違いです。
しかし、この弟子たちの姿は、わたしたちとも無関係ではありません。「その日」、という神の時を、私たちもまた、「今」、という自分の時にしようとする性質を強く持っているからです。むしろ、熱心な信仰者に限ってこの傾向が強いように思うのです。目の前に与えられた苦難や、逆に喜びに関して、それに対する神の導きはこうなのだ、これが神の御心だ、とすぐに答えを出したがる、そういう傾向が私たちにないでしょうか。
ですから、私たちは、「今、分かりました」、と性急にその神の導きを自分の物差しで測って早合点してはならないと思うのです。神の時と私たちの時とは全く違う、これが聖書の立場であるからです。
コヘレトの言葉は、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある(コヘレトの言葉3:1)」、と神の時を宣言し、「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時」、と具体的にその時を綴っていって、全ての時が神との関係で与えられていることを明らかにします。
どんな小さな人間でも主役になれる時が2回ある、とよく言われます。それが、「生まれる時」と「死ぬ時」です。ところが、今のパレスチナのような場所では、一度も主役になれないまま地上の生涯を終えていく幼子さえいることは事実です。しかし、彼らの「生まれる時」や「死ぬ時」でさえも神の時に吸収されている、この聖書の言葉は慰めではないでしょうか。この世の支配者たちは驕り高ぶり、自分の時のために多くの弱い人の時を好き勝手に奪っている。しかし、究極的には、どちらの時が尊いかは神が決めてくださることなのです。大切なのは、人生が長い短いではなく、またその人生の内容が幸いであるか不幸であるかでもなく、私たちの時が、時の支配者である神の御心に敵うのか、敵わないのか、これなのです。その上で、コヘレトは、これらの時を整理します。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。(コヘレトの言葉3:11)」、この通りです。私たちには、神の時を、「始めから終りまで見極めることは許されていない」のです。ですから、この地上において私たちは、「これが神の導きであった」とか、「これが神様の御心であった」、と神の時を自分の今にすることに関しては、慎重にしなければならないのです。そして、それは、勘の良さのような人間的な経験や知識に裏打ちされたものではなくて、神との交わりである深い祈りが根拠になるべきなのです。
「神様、どうしてですか」、と何度も、何度も祈る、この忍耐を通して、信仰の目が開かれて、もちろん完全ではありませんが、朧げに見えてくる、それが神の時であります。それでもなお、顔と顔とを合わせてはっきり見ることは、この地上ではかないません。しかし、むしろ、これは私たちの慰めではないでしょうか。今まで歩んできた道を振り返り、「神様どうしてですか」、と叫びたくなるようなことはいくらでもありました。今もそうです。しかし、私たちは、「永遠を思う心を与えられている」だけで十分なのではないでしょうか。「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」から、この地上にあっては、わからないだけで、必ずや、永遠の命の途上で、それが理解され、「神様どうしてですか」、が賛美に変えられる希望が残るからです。
私たちは、ことあるごとに「これが御心だ」、「それが御心だ」、とつい早合点してしまうのですが、その時にこそ、祈るべきなのです。信仰者の立場は、「これが御心だ」、の思い込みではなくて、「あなたの御心がおこなわれますように」、の祈りなのです。
さて、告別説教に終止符が打たれます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(33節)」、ここでは、まずここまでこの説教が語られてきた目的が、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」、と示されます。ここで、文法的に整理しておきたいのは続きます、「あなたがたには世で苦難がある」、というこの主イエスの言葉が、その前後の文章に作用しているということです。つまり、この「平和」、というのは、「あなたがたには世で苦難がある」、と予告されているのにも関わらず与えられる「平和」である、ということなのです。
この世の苦難によって破壊されない平和、つまりその平和は、相対的な平和ではなくて、絶対的な平和である、ということです。具体的に言えば、それは、他人と比較する必要がない平和であり、私たちが平穏無事でなくても悩む必要のない平和である、ということです。私たちは、苦難どころか、目先の不安ですぐさま平和から遠ざかってしまう者です。しかし、主イエスによって私たちに約束されている平和は、そんなに安っぽいものではないことをここで確認したいのです。
同時に、「あなたがたには世で苦難がある」、これは、続く、「しかし、勇気を出しなさい」、の方にも接続しています。そして、その理由が、「わたしは既に世に勝っている」、この主イエスの勝利宣言です。この告別説教は、この主イエスの勝利宣言でピリオドが打たれるのです。繰り返し確認してきましたように、今や主イエスは十字架の死を目前に控えています。その現実に向き合って主イエスは、「わたしは既に世に勝っている」、と言って憚らないのです。
この世的に見れば十字架は、極悪人への制裁であり、敗者の印です。「わたしは既に世に勝っている」などと逆立ちしても言えません。しかし、神の御子の十字架という逆転が、それをやって退けたのです。逆立ちしても言えないことが、これ以上ない真理となって普く世に響いたのです。主イエスの十字架によって、極悪人の制裁が、極悪人の救いに逆転したのです。「わたしは既に世に勝っている」、この主イエスの宣言から驚くべき逆転が始まるのです。これが十字架のプロローグなのです。
「あなたがたには世で苦難がある」、これは、私たちももちろん例外ではありません。むしろ、私たちに直撃する主イエスの言葉です。「世」、というのは、主イエスを十字架につけたこの世界だからです。そうである以上、その十字架の主を愛し宣教するのであれば、そして十字架の主への信仰を守るのであれば、ただでは済まされないはずなのです。しかし、「わたしは既に世に勝っている」、その十字架の主イエスに従うのであれば、私たちの勝利も確定している、それがここで御言葉によって約束されているのです。
もう、10以上前に天に召された榊原康夫牧師が「聖書は神様のラブレターだ」とおっしゃっていたのはとても有名です。その通りでありましょう。しかし、もう一つの側面があることを今日覚えておきたいのです。聖書は、戦いの書物です。しかも信仰の戦いの書物です。聖書は、戦え、というのです。
聖書全体を繰り返し読めば読むほど、聖書は私たちを信仰の戦いに召し出していることを確信するはずです。しかし、その信仰の戦いの結果はすでに明確にされています。その根拠にある御言葉が、「わたしは既に世に勝っている」、この主イエスの宣言なのです。
十字架の死に歩み出す主イエスは、「わたしは既に世に勝っている」、と宣言されました。それはこの世的に見れば、大失敗で、孤独で、惨めな最期です。しかし、「わたしは既に世に勝っている」、この御言葉は、世の終わりまで響いています。主イエスは復活され、事実、私たちもこの主イエスの命に、永遠の命に生きる者とされているからです。そうである以上、私たちがどのような苦難や恐れを前にしても、たとえこの肉体の死を前にしても、その勝利はほんのわずかさえも違わない。
今こそ、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」、この主イエスの後に従ってまいりましょう。「見よや、十字架の旗たかし 君なるイエスはさきだてり 進めつわもの 進みゆき おおしくあだにたちむかえ(讃美歌379番)。」