2025年07月20日「告別説教の結論Ⅰ主イエスによって父なる神を知る」

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告別説教の結論Ⅰ主イエスによって父なる神を知る

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 16章25節~33節

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25節 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
26節 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。
27節 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
28節 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
29節 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。
30節 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
31節 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。
32節 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
33節 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書 16章25節~33節

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説教の要約

「告別説教の結論Ⅰ主イエスによって父なる神を知る」ヨハネ16:25〜33

 本日から、主イエスの告別説教は、いよいよ結論部分へと入っていきます。今週と来週の2回に分けて、この部分から教えられたいと願っています。

 ここでまず、「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。(25節)」、と主イエスは言われます。ここで使われています「たとえ」、という字は、共観福音書と呼ばれるマタイ福音書やルカ福音書などで多く語られている喩え話を意味する、あの「たとえ」、と言う字とは違います。これは新約聖書全体でも5回しかみられない珍しい言葉で、「謎」とも訳せる字なのです。つまり、ここで、「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた」、と主イエスが言われています意味は、今まで語ってきたこの告別説教全体が、弟子たちにとって謎のような話であった、と言うことなのです。ですから、「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」、と言うのは、その謎が聖霊の導きによって解明されるペンテコステ以降の状況を主イエスが予告されたもので(14:25、26を参照)、これは簡潔に言い換えますと、弟子たちの謎が解明され、天の父がどのような方であるかさえもわかる、と言う意味です。

 天の父、と言うのは、ユダヤ人である弟子たちにとっては、天地万物を創造された生ける真の神で、言わずと知れたイスラエルの神に他なりません。そんなことは、弟子たちだけでなく、ユダヤ人である以上、誰でもよく理解していました。しかし、では、その父なる神が具体的には、どんな方であるのか、それを知るものは一人もいなかったのです。これは、このヨハネ福音書のプロローグと呼ばれる部分の最後で謳われている非常に大切な御言葉です。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(1:18)」、これです。

 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、天地万物を創造された生ける真の神、と知識では知っていても、誰一人、その神を見たものはいない、具体的に神がどのようなお方であるか、それは誰も知らなかったのです。しかし、人となって地上に降りて下さった神の御子である主イエスだけが、御父を知っていて、具体的に示して下さった、と言うことです。そして、それがこの後の主イエスの十字架から始まり、復活とペンテコステの出来事によって、明確にされるわけです。弟子たちは、主イエスによって、しかも、十字架の主によって、天の父を知るのであり、これは旧約時代に誰一人知ることが出来なかった謎が解明される決定的な瞬間なのです(マタイ13:17参照)。主イエスが、この告別説教の序盤ですでに、「わたしを見た者は、父を見たのだ(14:9)」、と宣言されていたのは、まさにこのことで、ペンテコステの以降の福音宣教の時代は、「わたしを見た者は、父を見たのだ」、この主イエスの宣言が、彼らの信仰の根拠であり、何者にも屈しない、強靭な信仰共同体の土台となったのです。だから教会は倒れなかったのです。最初期の教会、迫害されながら困窮に耐えたキリストの群れにあっては、あの十字架の主イエスが、天の父そのものである、これ以上の慰めはなかったのでありましょう。主イエスが十字架で死んでくださるほどに私たちを愛してくださったように、天の父も私たちを愛してくださる、この慰めです。

 そして、主イエスの十字架の愛=天の父の愛、これは、このヨハネ福音書だけでなく、聖書全体の中心とも言えます神の愛を謳ったあの御言葉が証言しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)」、この通りです。実に、この絶対的な神の愛は、聖書全体の全ての謎を解く真理の中の真理なのではないでしょか。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、この真理の光によって聖書は解き明かされるはずであり、またそうでなければならないのです。同時に、この神の愛は、信仰者が生きる現実に広がるあらゆる暗闇を打ち破り、苦難や悲しみに解答を与える決定的な事実ではないでしょうか。私たちの人生の光なのです。

その上で、さらに主イエスは神の愛に言及します。「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。(27節)」、ここで、「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」、と主イエスは言われます。これはここまで確認してきました父なる神の愛が、そのまま繰り返されているように思えますが、実は少し違うのです。先ほど引用しました「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、この神の愛を示す言葉は、ギリシア語で、「アガパオー( ἀγαπάω)」、という字を書きます。これが名詞になると「アガペー」という言葉になります。この「アガペー」は、神の愛を示すための述語で、主イエスキリストの十字架で示された今まで誰も知らなかった理解不可能な愛、神の無償で、無条件で、無尽蔵の愛、それがこの「アガペー」という言葉で表現されたのです。

 しかし、この節で、「父御自身が、あなたがたを愛しておられる」、と記されている「愛する」、という字は、この日本語訳の聖書ですと全く同じですが、ギリシア語の聖書では、あの「アガペー」という字とは違います。これは、「フィレオー(φιλέω)」、という字を書きまして、家族愛や友人愛を意味する言葉なのです。天の父は、その独り子を十字架につけるほどに私たちを愛してくださった、この「アガペー」という言葉で表現される究極的な愛を私たちに与えて下さりながら、しかし、それだけではないのです。真の親子関係がそうであるように、天の父は、日常的に私たちを実の子どもとして扱ってくださる、この家族愛をも絶えず注いでくださっているのです。

 しかし、やはり、この時点でこの告別説教を聞いている弟子たちにとって、それは謎でしかないのでありまして、彼らはまだ、福音宣教の時代は愚か、主イエスの復活も十字架さえも知りません。

 それなのに、「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」、などとどうして言えましょうか。

実は、これがキリスト教信仰の独自性でもあるのです。弟子たちが、まだ何もわかっていないのにも関わらず、主イエスは、「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」、と言い切ってしまう、これがキリスト教信仰の本質なのです。実は、「あなたがたが、わたしを愛し」、この「愛する」という動詞、そして、最後の「信じたからである」、この「信じる」、という動詞は、いずれもその時制が完了形で、もうすでにそれが実現していて、今も継続している、そういうニュアンスなのです。

弟子たちは、実際のところ、主イエスを愛していなかったし、主イエスを信じてもいませんでした。この直後、主イエスが逮捕された瞬間、彼らは、逃げ出して隠れ、あるいは、主イエスを知らないとしらばっくれました。彼らが愛していたのは、主イエスではなくて、自分自身であり、彼らが信じていたのは、主イエスではなくて、世の力であった。しかし、それにも関わらず、「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」、と主イエスは、弟子たちの中ですでに実現したこととして、憚らずここで語っておられるのです。これはペンテコステ以降の福音宣教の時代になって初めて実現し始める未来のことです。しかし、「あなたがたは私を愛するだろう」、ではなく、「あなたがたは私を信じるだろう」、でもないのです。どうしてでしょうか。

それが神のご計画であり、神の御心である以上、必ず実現するからです。これがキリスト教信仰のなのです。私たちが理解できない主イエスの再臨や、永遠の命がまさにそうです。それは、この世的な理解では、未来の約束に思える、しかし、事実、信仰の世界においては、すでに完了形で私たちはいただいているではありませんか。信仰に「〜であろう」はないのです。完了形の確信に立つのが信仰であり、それが、「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」、この主イエスの言葉によって示されているのです。

 高島平から離れ、東京教会で信仰が育まれたこのわずから時間でさえ、私たちは、不安や迷いがなかったわけではありません。そして、これから高島平の地に帰ってそこからまた多くの試練が与えられることは、御言葉によって確定されています。しかし、その現実の中で私たちにも「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」、この主イエスの言葉が与えられています。この完了形の信仰に立って、今私たちは新しい歩みを始めるのです。