2025年07月13日「喜びで満たされる」
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喜びで満たされる
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 16章16節~24節
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聖書の言葉
16節 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
17節 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
18節 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
19節 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
20節 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
21節 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
22節 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
23節 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
24節 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
ヨハネによる福音書 16章16節~24節
メッセージ
説教の要約
「喜びで満たされる」ヨハネ福音書16:16〜24
いよいよ、告別説教の結論に近づいた時、「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる(22節)」、と主イエスは弟子たちに言われました。もちろん、弟子たちが、今悲しんでいますのは、主イエスの十字架を悟っているからではありません。今まで繰り返し確認してきましたように、むしろ、状況がよくわかっていないからです。今、主イエスの弟子たちの目の前には暗雲が立ち込め、少なくとも自分たちの思い通りにならないことは悟り始めていました。それが、「今はあなたがたも、悲しんでいる」、と言われた弟子たちの姿でした。ところが、主イエスは、その理解がなく、愚かな弟子たちのレベルに合わせるのではなく、あくまでも、「しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる(22節)」、とこのように、これから実現する復活の真実のみを語るのです。復活どころか、十字架さえも理解できない弟子たちに、主イエスは、復活とその後の再会を約束しているのです。これも非常に大切な救いの法則です。弟子たちに理解が無かろうが、弟子たちが愚かであろうが、その只中で、十字架と復活という決定的な罪人の救いが実現したのです。私たちの愚かさとか、弱さというのは、神の救いの御業の足枷にはならない、これが神の救いの法則なのです。私たちの愚かさとは無関係に、あるいはそれさえも用いられて、神の国は確実に完成に向けて進展しているのです。これは大きな慰めではないでしょうか。
さらに、「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」、と主イエスが言われていますことが大切です。この喜びとは何でしょうか。それは、復活の主に弟子たちが見えた喜びであり、私たちが聖霊によって御言葉を通して主イエスに見えた喜びであります。つまり、これは救われた喜び、と言い換えることも可能でありましょう。滅ぶべきはずの私たちが罪から救われ、永遠の命が約束された喜びを奪い去る者はいないのです。これは、福音の頂点と言われるローマ書の8章の結論部分で謳われるキリスト者の勝利宣言そのものです(ローマ書8:38、39参照)。
ところが、これを聞いている弟子たちは不安に駆られ、主イエスがどこに行ってしまうのか、これからどうなってしまうのか、と尋ねたいことが山ほどありました。しかし、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない(23節)」、と主イエスは言われます。主イエスの十字架と復活によって、救いが実現した以上、そのような不安から解放されるからです。
その通り、ペンテコステ以降の福音宣教の時代になりますと、弟子たちは尋ねる立場ではなく、むしろ尋ねられる立場になるわけです。ペンテコステの日に語られたペテロの説教の直後のシーンがまさにそれです。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(使徒言行録2:37〜38)」、この通りです。今、主イエスの告別説教を聞いて、どうすればいいのかわからなかった弟子たちが、ここでは、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」、と質問されて、それに回答する立場にされているわけなのです。
ですから、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」、これはすぐにでも実現する使徒たちの働きを指して、主イエスがこのように言われているのです。
そうである以上、ここでさらに大切なのは、続く、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」、この主イエスの約束なのです。「わたしの名によって何かを父に願う」、文字通り、これは祈りです。つまり、これは、弟子たちの役割の大きな変化なのです。
福音宣教の時代以降、主イエスの弟子たちの役割は、不安になって尋ねることではなくて、信仰と希望を持って祈ることである、主イエスはこれを予告されているのです。祈りというのは、主イエスの弟子たち、そしてそれ以降の全ての信仰者に委ねられているこれ以上ない大切な務めであるわけです。ですから、この祈りの勧告がさらになされます。
「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。(24節)」、弟子たちは、主イエスと共に地上を歩む中で主イエスの名によって祈ることはなかったのです(特にゲッセマネで主が祈っていた時に眠りこけていた弟子たちの姿が象徴的→マルコ14:37参照)。しかし、主イエスが復活されて、天に昇られ、弟子たちの目に見えなくなった時に、弟子たちは、初めて熱心に祈り始めたのです(使徒1:14参照)。
さらに、ここでは、「そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」、この主イエスの約束が非常に重要です。これは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(マタイ7:7以下)」、と共観福音書と呼ばれるマタイ福音書や、ルカ福音書でも強調されています主イエスの言葉です。
実際、この御言葉につまずいてしまうこともあるのではないでしょうか。祈っても、祈っても、叶えられない願いなどいくらでもあるからです。しかし、それは、この世的な視点で祈りの結果を観察している場合が多いからではないでしょうか。祈りというのは、あくまでも神様との交わりです。そうである以上、私たちの祈りが、地上的な視点では、全く叶えられないように見える時も、神の国の完成という視点に立てば、実は、それは私たちの思いをはるかに超えたところで実現していることをやがて悟ようになる、これが祈りの世界ではないでしょうか。
祈りというのは、この世の可能性ではなくて、神の可能性に立つことであります。そうである以上、私たちの祈りが、この世的には叶えられないように思えても、神の国のレベルでは、鮮やかに実現している、一番ふさわしいように聞き届けられている、これを疑ってはならないのです。ですから、私たちは、祈るのをやめてしまわないようにしなければならないのです。祈りが聞き届けられないのと、神様が聞いてくださらないのとは、全く別です。その視点では、「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」、この主イエスの約束に私たちの福音宣教がかかっているのです。祈りに対するこの積極性が、とても大切であるわけです。
聖書全体を通読していく上で、はっきり言えることは、非常にポジティブな信仰が求められている、このことです。「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」、と主イエスが言われる以上、大切なのは、私たちが願うことなのです。求めること、探すこと、そして門を叩くことなのです。消極的になって、何もしないのであれば、与えられるはずの恵さえも無駄になってしまう、これが聖書の、そして信仰の世界です。
確かに、私たちは、主イエスから一方的な恩恵をいただいています。罪の赦しも、永遠の命も、全て私たちは無条件に与えられています。しかし、間違えてはならないことは、それらの恩恵は一方的であっても、一方通行ではないということです。私たちは、その無償の恵を全力で獲得しにいくべきなのです。
随分前に水前寺清子さんという歌手が「365歩のマーチ」という歌をヒットさせました。
「しあわせは歩いてこない だから歩いてゆくんだね」、とその歌詞は謳われています。このフレーズが、高度成長期の終わりにあった私たちの国に響いたのでありましょう。
「しあわせは歩いてこない」、これは信仰の世界でもその通りであると思うのです。ですから、大切なのは、信仰の歩みを止めてはならない、ということです。
「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」、と主イエスは言われます。「喜びで満たされる」、というのは、つい小躍りしてしまうような心と体の状態ではないでしょうか。
喜びが溢れ出して私たちのキャパシティを超えてしまうわけですから、普通ではいられないわけです。それは、自制の効かない喜び・・・、小さな子どもが嬉しいときにピョンピョン跳ねてしまう、あの姿です。「しあわせは歩いてこない だから歩いてゆくんだね」、の後は、「一日一歩 三日で三歩 三歩進んで 二歩下がる」、と続きます。主イエスに導かれる私たちは二歩下がる必要などありません。
「三歩進んで 二回飛び上がる」、くらいが正確でありましょう。