2025年07月06日「悲しみと喜び〜ミクロからマクロへ〜」

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悲しみと喜び〜ミクロからマクロへ〜

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 16章16節~24節

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聖句のアイコン聖書の言葉

16節 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
17節 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
18節 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
19節 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
20節 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
21節 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
22節 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
23節 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
24節 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
ヨハネによる福音書 16章16節~24節

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説教の要約

「悲しみと喜び〜ミクロからマクロへ〜」ヨハネ福音書16:16〜24

 いよいよ主イエスの告別説教が終わりに近いた時、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。(16節)」、と主イエスは、言われました。

ここで繰り返される、 「しばらくすると」、という表現は、ギリシア語では、ミクロス(μικρός)という字を書きまして、英語のあのミクロ、という言葉の語源です。ですからこの「しばらくすると」、というのは、ほんのわずかな時間、そういうニュアンスで、直接的には、この主の晩餐のすぐ後に実現する、主イエスの十字架と復活を指して、このように言われているのでありましょう。この「しばらくすると」の中で、主イエスの十字架と復活という歴史全体で最も大きな出来事が実現していくのです。

つまり、これはミクロの中でマクロが実現するということで、すなわち、不可思議で不可能なことが、ここから始まるということです。その舞台設定が、この「しばらくすると」、という表現で暗示されていて、それゆえに、この「しばらくすると」は、神の時の予兆を示す言葉とも言えましょう。

ところが、ミクロの中でマクロが実現する、不可能なことが、ここから始まるという、この神の御子の十字架という歴史の頂点の予告を前に、弟子たちは、やはりその愚かな姿をさらすだけでありました。彼らは相変わらず理解がなく、「何を話しておられるのか分からない」、ともはやお手上げ状態でありました。

 しかし、実は、これが、聖書全体が語る大切な法則で、神の偉大な御業が始まる直前、あるいは、その直後、人間はそれに耐えられないのです。「しばらくすると」、この神の時に耐えられないのが私たち罪人なのです。今、主イエスの十字架の前夜、弟子たちが愚かな姿を晒していることで、むしろこの法則の妥当性が証明されているわけです。

そして、この法則は、旧約の最も偉大な神の御業である出エジプトを前に恐れ、何度も言い訳をして逃げようとしたモーセの姿や(出エジプト4:1〜17)、総勢850人の偽預言者たちを相手に一人で戦ってこれに打ち勝った直後、たった一人の妃の脅迫に怯えて、誰にも見つからないところへと逃げ出したエリヤの姿を見れば十分でしょう(列王記上19:1〜4)。

 しかし、その時に、その人の弱さをよく知っていてくださるのが主イエスなのです。主イエスは、「しばらくすると、と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。(18節)」、というこの弟子たちの愚かな議論に対して、この直後実現する神の偉大な御業を「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」、と予告します。これは、主イエスの十字架と復活に対する弟子たちとこの世の姿です。

 十字架の主を前に弟子たちは、「泣いて悲嘆に暮れる」、しかし、「世は喜ぶ」、のです。この「世」というのは、主イエスを十字架につけた「この世」のことです。特にこの世の支配者であり、この世に執着する人々です。救い主イエスの誕生のニュースを聞いた時、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。(マタイ2:3)」とマタイ福音書は報告しています。彼らがこの世であり、主イエスの誕生を聞いて不安になった彼らがそのまま、主イエスを十字架につけたのです。「世は喜ぶ」、というのは「他でもないこの世が主イエスを十字架につけたのだ」、そういうメッセージです。

 ここで大切なのは、この世の喜びと弟子たちの喜びの対比なのです。この世は主の十字架を喜んでいて、十字架の悲しみを知らないのです。しかし、弟子たちは十字架の悲しみを知っているのです。この違いなのです。そして、「その悲しみは喜びに変わる」、これは、死の悲しみが復活の喜びに逆転する、という意味です。その場合、悲しみは死であり、喜びは復活であり命です。この死から命への逆転が弟子たちの喜びなのです。

 ですから、大切なのは十字架の悲しみを知っているか、知らないかなのです。十字架の悲しみを知るものは、必ず、「その悲しみは喜びに変わる」からです。つまり、「世は喜ぶ」、というのは、あくまでもこの世的な喜びであって、それは死を越えることが出来ない束の間の喜び、ミクロの喜びなのです。しかし、弟子たちの喜びは、「その悲しみは喜びに変わる」、つまり死は命に飲み込まれた、という死を克服した喜び、このマクロの喜びなのです。これが信仰者に約束されています喜びなのです。

 しかし、それでもなお、私たちもこの世と無関係ではありません。それどころか、罪の重さや大きさ、恥ずかしさの点では、この世と何ら変わりありません。まさに私こそミクロな者です。

 しかし、そのミクロがマクロにされてしまう、死が命に逆転する、それが、「その悲しみは喜びに変わる」、この主イエスキリストの約束なのです。

 パウロは、死者の復活の大切な証言で、このミクロとマクロの関係を鮮やかに謳います。

 「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。(Ⅰコリント15:52〜55)」

 「朽ちるべきものが朽ちないものを着る」、これが私たちの復活です。死が命に逆転する、それはミクロがマクロを着ることであり、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」、この死に対する私たちの勝利の宣言です。

 私たちは、小さい者です。弱い者です。しかし、それは聖書の言葉に立てば全く問題ではありません。ミクロの中でマクロが実現するからです。私たちの目に、不可能なことが、「しばらくすると」、というこの神の時の中で始まるからです。たとえ、今私たちが恐れていても、それは主の偉大な御業が実現する前夜であります。

 ちょうど今、新しい会堂が完成する直前、私たちに不安がないわけではありません。資金面、これからの伝道計画、と祈りの課題は山積みです。しかし、それこそが、今から、神の偉大な御業が実現することの証です。その前に私たちは恐れるのです。だから御言葉に頼り、かつ祈りがなければ前に進めないのです。私たちが計画して、そのままスマートに実行できるのであれば、それは神の御業ではありません。その場合、祈る必要もないでしょう。豊かな教会ほど実際この罠に引っかかっています。神の御業である以上、必ず、そこに神が介入されて、不可能が可能にされるはずです。祈りと忍耐が必要なはずです。そして、その先にこそ希望があるのです。

あるいは究極的には死の床ににあって私たちが怯えようとも、それは主の偉大な御業が実現する前夜であります。その時こそ、死が命へとミクロがマクロへと逆転する瞬間です。

 この世にあって、私たちがどんなに恐れていても、怯えていても、それさえも問題ではない。

 「その悲しみは喜びに変わる」からです。不安に苛まれる時に、苦難の日に、悲しみの時にこそ、どうか思い出していただきたい、確信していただきたい、「その悲しみは喜びに変わる」と。