2025年05月04日「神の栄光のために」

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聖句のアイコン聖書の言葉

5節 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
6節 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
7節 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
8節 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
ヨハネによる福音書 15章5節~8節

原稿のアイコンメッセージ

「神の栄光のために」ヨハネ15:5〜8

本日の箇所で主イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である(5節)」、とぶどうの木である主イエスに対する私たち信仰者の立場をはっきりと示されます。これは、先週学びましたように、私たちが、互いに愛し合うことによって実現する信徒の交わりの姿です。

その上で、ご自身につながっているその私たちの特権を「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。(7節)」、とこのように約束されます。ここで、「わたしの言葉」、という表現が出てまいります。繰り返しになりますが、これは単に主イエスが発した言葉、というわけではありません。この言葉は、神の言葉である主イエスご自身であり、「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」、というのは、主イエスご自身が私たちの内にある、ということに他なりません。

私たちのキリスト教信仰は、言葉によって与えられ、言葉によって導かれ、言葉によって実現する、まさに言葉による信仰です。言葉にはまず事実があります。その事実を音や文字であらわすと言葉になるわけです。だから事実のない言葉ほどむなしいものはありません。つまり、キリストが私たちの内におられなければ、その言葉は、むなしい響きでしかないのです。御言葉が私たちの内にある、それは主イエスが私たちの内におられることであり、そこからキリスト教信仰は始まります。

これはローマ書でパウロが実に見事に証言しています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ書10:17)」、この通りです。

「キリストの言葉」、というのは、キリストご自身であり、神の言葉である聖書全体でもあります。ですから、「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」、これは「私たちがキリストに結合されている」、という意味です。私たちのうちにキリストがおられる以上、「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」、と主イエスは約束してくださっているのです。

これは現代の教会にとって非常に大切な約束であり、大きな慰めではないでしょうか。私たちは願いがなかなか叶えられない現実に生かされているからです。しかし、私たちは、本当に信仰の叫びを上げるくらい積極的に願ってきたでしょうか。疑うことなく祈ってきたでしょうか。御言葉に立って祈ってきたでしょうか。あるいは、全部逆であったのかもしれません。私たちは、小さな声で、消極的に、疑いながら、自分の都合を優先して、願ってきたのではないでしょうか。

主イエスが弟子たちに教えられた主の祈りは、「天にまします我らの父よ」、から始まります。主イエスが世に来られる前も地上を去った後も、主なる神を我らの父と呼んで祈りを教えた者は誰一人おりません。歴史上、御子である主イエスだけが生ける真の神を父と呼べたからです。ですから、これはキリスト者だけの特権なのです。天地万物の創造者であり支配者である神を父と呼べる特権を私たちはいただいているのです。「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」、この御言葉は、私たちのこの特権に基づいて約束されていることをもう一度心に深く留めたいのです。

その神の御名を賛美した後、「御国をきたらせたまえ」、と主の祈りは続きます。私たちの祈りは、私たちの繁栄が目的ではなく、神の国の実現が目的である、ということです。あるいは、「望むものを何でも願いなさい」、それが、この神の国の実現からずれているから、かなえられないのではないでしょうか。しかし、私たちの祈りが神の国の実現に向いているのであれば、必ずそれはかなえられます。しかも、最も麗しいかたちで聞き届けられます。例え多くの時間がかかろうとも、です。

身近な例として、私たちは、今新しい会堂建築のために祈りながら勤しんでいます。そもそも、経済的には教会の運営さえままならぬ小さな群れに新しい会堂建築のビジョンが与えられること自体、この世の常識から見ればあり得ないことでした。しかし、今、高島平の地で会堂が建てられているのは事実です。私たちの貧しい群れが、最も用いられないような務めに今用いられているのです。

外部から献金をいただいた場合、必ず感謝のお手紙を差し上げるようにしています。その作業の中で、私たちの教会がいかに期待されているかを思い知らされ、私たちが消極的であるのならば、それは明らかに罪である、と悔い改めが与えられています。この新会堂建築を通して、私たちは、よりポジティブに主なる神に仕えて行くように変えられているように思えるのです。私たちが積極的に変えられたことで、実は今まで消極的であったことに目が開かれたのです。これは新会堂建築を始めなければ与えられなかった悔い改めです。このように思い返した時、その舞台が今与えられようとしているのは、いかに幸いなことでしょうか。これが主なる神の導きでなくてなんでしょうか。

さて、次の節で一度結論が出されます(ギリシア語聖書の本文では一度段落が終わるからです)。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。(8節)」、ここでは訳の問題があります。まずは、ギリシア語の本文では、この日本語訳の聖書と言葉の配列が違いまして、後半部分の「それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」、こちらの方からこの節は始まりまして、この部分が特に強調されています。さらに、「わたしの父は栄光をお受けになる」、この部分の動詞の時制は過去形なのです。ですから、ここは「わたしの父は栄光をお受けになった」、と訳すのが正確です。「わたしの父は栄光をお受けになる」、これは未来の予測ではないのです。あたかも、それがもうすでに実現してしまったように「わたしの父は栄光をお受けになった」、と主イエスはここで語られているのです。ですから、これにかかる、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら」、この部分は、「もし〜ならば」、とこの翻訳の通りに仮定法で訳すことも文法的には可能でありますが、少し無理があります。この部分で使われている動詞は文法的にいずれも接続法という少し特殊なもので、前者の「豊かに実を結び」、この「結び」、の方は、継続した動作を示す時制で、ここは「結び続ける」、と訳すのが正確です。さらに後者の「弟子となるなら」、この「なるなら」、という動詞の方は、一回的な動作を示す時制で、「なったので」、あるいは「なったから」、と訳すのが正確です。

ですから、整理すれば、この節全体の訳は次のようになります。「それによって、わたしの父は栄光をお受けになった、あなたがたが豊かに実を結び続け、わたしの弟子となったので」、すなわち、主イエスは、決して私たちの功績によって、天の父が栄光を受けるであろう、というニュアンスで語っているわけではないのです。そうではなくて、まず、天の父が栄光をすでに受けている、これは確定していて、その栄光のために今現実的に私たちが用いられている、あるいは参与している、このことを主イエスは言われているのです。

私たちの日本キリスト改革派教会の信仰告白はご存じの通りウェストミンスター信仰基準です。

これは私たちの教会の憲法にもなっている極めて大切な文書です。その中で、小教理問答書は、この信仰基準を最もコンパクトにまとめたもので、信仰の入門書とも言えます。子どもでも理解できるように整理されたものだからです。今ちょうど、私たちの教派では、ウェストミンスターリーディングプロジェクトの最中でありまして、特に小教理は完成したばかりの新しい訳で読むことができます。

その小教理問答書の第一問で、私たち人間の目的が明確に示されています。

問1 人間の主要な目的はなんですか。

答 人間の主要な目的は、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことです。

これがウェストミンスター小教理問答書の序論であり、同時に結論でもあります。神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶ、これが私たち人間の目的であり、そもそも、私たちはそのために創られたのです(詩編102:19)。つまり、本日の御言葉で、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となる」、ここに、私たちの生きる目的も、私たちが創造された意味も全て見事に集約されているのです。ここにウェストミンスター信仰基準がかかっている、と申し上げても全く過言ではありません。

 そして、繰り返すようですが、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となる」、これは、私たちが、互いに愛し合うことです。ですから、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」、このキリストの新しい掟に私たちの信仰基準はかかっているのです。信仰は、決して単なる思想の一つではなくて、愛によってその姿を現す現実だからです。