2025年04月27日「わたしにつながっていなさい」

問い合わせ

日本キリスト改革派 高島平キリスト教会のホームページへ戻る

わたしにつながっていなさい

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 15章1節~4節

聖句のアイコン聖書の言葉

1節 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
2節 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
3節 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
4節 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
ヨハネによる福音書 15章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

2025.4.20「わたしにつながっていなさい」ヨハネ15:1〜4

受難週〜イースター礼拝で先週まで一旦中断していましたが、また本日からヨハネ福音書の方に戻ります。ちょうどタイミングがよく、本日からヨハネ福音書講解は15章に入ってまいります。

ここで主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である(1節)」、とここから新しい譬え話を始められます。まず、ここでは、この「まことの」、という表現が大切です。それは、「まことの」、という以上、そうでないもの、すなわち偽物の「ぶどうの木」があることが示唆されているからです。実際、この主イエスの時代、その偽物の、「ぶどうの木」と言えるものがありました。それは、神の民イスラエルの姿です。旧約の時代から主イエスの時代に至るまで、イスラエルは、悪いぶどうしか実らせない背信の民へと堕落していたのです(イザヤ5:1、2、エレミヤ2:21、22等参照)。ですから、「わたしはまことのぶどうの木」、と主イエスが言われます時、それは、この悪いぶどうの木であるイスラエルに対して、主イエスが、「まことのぶどうの木」であるということ、さらに新しい神の民であるキリストの教会をここから作り出される意味でこのように言われているわけです。

 続いて、その主イエスのぶどうの木の姿が、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。(2節)」、と説明されます。ここでは、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな」、とあります以上、主イエスにつながっているのに、実を結ばない枝があることが前提にされています。

つまり、私はクリスチャンである、という私の立場が、私たちの救いを確定するのではなくて、私たちの救いは、全て天の父なる神様の御心にある、ということです。言い換えてみれば、救いが人間中心ではなく神中心であることがここで確認されているのです。私を救うのは、私の立場ではなく、主なる神の憐れみなのです。

 さらに主イエスは続けます。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。(3節)」ここで、「わたしの話した言葉」、という表現が出てまいります、この「言葉」という字は、ギリシア語でホ・ロゴス(ὁ λόγος)と発音します。これは14:22〜24を学んでいます時に確認しましたが、このホ・ロゴス(ὁ λόγος)は、この福音書の最初で「初めに言葉があった(1:1)」、と謳われるあの「言葉」、と全く同じ字です。つまり、この「言葉」という字は、そのまま受肉の神の御子イエスキリストを示すために、この福音書が真っ先に採用した極めて大切な字なのです。ですから、「わたしの話した言葉」、これは、ただ主イエスの口から発せられた言葉、という以上に、主イエスご自身を示していまして、つまり、ここでは「この私によって、あなたがたは既に清くなっている」と言い換えてもいいくらいに、主イエスと言葉は一体的なのです。ですから、弟子たちが、そして私たちが不完全であっても、それは問題ではないのです。主イエスによって私たちは、「既に清くなっている」からです。

そして、この主イエスによって、私たちは「既に清くなっている」、この救いの状態は、教理用語で言いますと義認、という言葉で表現されます。十字架の贖いによって主イエスは私たちのすべての罪を帳消しにしてくださいました。それゆえに、この十字架の主を信じることで、私たちの罪はすべて赦された、これが義認という言葉が示す意味です。つまり、私たちは「既に清くなっている」、この罪の赦しである義認は、神様の側の一方的、かつ一回的な決定で、私たちの現在過去未来のすべての罪が赦され、罪を抱えたまま、天国の市民権が与えられた、ということです。

しかし、それで「めでたしめでたし」で終わりではないところが、この御言葉の肝心なところで、それが、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。(4節)」、と主イエスが言われる意味です。つまり、大切なのは「既に清くなっている」その後である、ということです。私たちは救いのオブジェではないのです。

 ここで、「実を結ぶこと」が、執拗に求められていますように、私たちは信仰の実を結ばなければならないのです。そして、それは、「わたしにつながっていなさい」、とありますように、主イエスに繋がっていて初めて可能である、ということです。

 私たちが「既に清くなっている」、これが義認であるとしましたら、「わたしにつながっていなさい」、こちらの方は、聖化と呼ばれる教理が示す内容です。前述の通り義認は一回的な決定であるのに対して、聖化の方は生涯続きます。さらに義認は、神の側の一方的な行為であるのに対して、聖化の方は私たちの側の信仰・希望・愛も継続的に用いられます。

 礼典で言えば、義認は洗礼式であり、生涯一度だけの救いの印です。聖化の方は聖餐式であり、何度も繰り返し示される救いの印です。ですから、洗礼式によって救いが確定しておしまいではなくて、繰り返し聖餐式に与ることによって、主イエスに繋がっていることを確認する、これが地上におけるキリスト者の救いの全体像です。それは、私たちは主イエスに繋がっていなければ「実を結ぶことができない」からです。一度救われてそれで主イエスとの関係が終わってしまったら、私たちは幹から離れた枝にすぎません。キリストと無関係なのですから。ぶどうの木の枝はそれ自身に命を持っていないように、その場合私たちは枯れてしまい、永遠の命から切り離されてしまいます。

聖餐式がいかに大切なものであるか、私たちは次週の聖餐式の備えをする中であらためて思い巡らしたいのです。それはキリストに繋がっている証拠であり、永遠の命の宴であるからです。もっと簡潔に言えば、聖餐式は、私たちが生きている証拠なのです。

 ここで主イエスは、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」、と言われます。このつながる、という言葉は、宿る、留まる、あるいは滞在する、という意味で、このヨハネ福音書がキリストとの結合を表現するために用いる述語です。

 何度か確認してまいりましたが、このキリストとの結合は、私たちがキリストの中に入ってしまうというニュアンスで、パウロはこの状態をエン・クリストー・イエスー(ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ)、と表現しました。

このキリストとの結合が最も鮮やかに謳われていますのが、そのパウロの、あるいは聖書の福音の頂点とも言われるローマ書の8章です。

そして、実に、その福音の頂点は、このキリストとの結合から始まります。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。(ローマ書8:1)」、これは、この罪の赦しの宣言で、義認の教理そのものです。しかし、そこからこの福音の頂点は始まるのです。まるでここから聖化の歩みが始まるように。罪赦されてハッピーエンドではないのです。そこから、「わたしにつながっていなさい」、この主イエスとの信仰の歩みは始まるのです。

 しかし、最後にパウロは、この私たちとキリストとの結合が切り離せないことを謳い、福音の頂点の幕を閉じます。「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(39節)」まるで私たちの人生のようではありませんか。このローマ書8章は信仰者の生涯そのものであり、すなわち私たちキリスト者の生涯こそが福音の頂点を歩む道である、ということです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」、この信仰義認にはじまって、どんなものもそのキリストとの結合から私たちを離すことはできない、地上の死を迎えるその時まで。実に義認から始まる私たち信仰者の聖化の歩みの全体像がここにあるのです。この章全体に私たちの人生が描かれているのです。私たちの生きてきた道を、そして地上を去るまで前に続くその道をこの御言葉に重ねていただきたい。ヨハネ福音書で、主イエスが、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」、と言われます時、そこにはこのローマ8章全体の御言葉の恵が満ち溢れているのです。私たちは、この週、この御言葉とともに歩んで、キリストとの結合の証である次週の聖餐式、キリストの宴に招かれたいと願います。

その福音の頂点、キリスト者の生涯の途上でパウロは謳います。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(28節)」、これが今の私たちの姿でなくて一体なんでしょうか。