2024年04月21日「イエスは何者か(後)」

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イエスは何者か(後)

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 8章48節~59節

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聖句のアイコン聖書の言葉

48節 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、
49節 イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。
50節 わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。
51節 はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」
52節 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。
53節 わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」
54節 イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。
55節 あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。
56節 あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」
57節 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、
58節 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
59節 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。
ヨハネによる福音書 8章48節~59節

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説教の要約

「イエスは何者か(後)」ヨハネ8:48〜59

先週から、7章の初めに始まった仮庵の祭での出来事の結論部分の段落に入りまして、2回に分けて学んでいます。本日は後編といたしまして、54節以下の部分から教えられたいと願います。

ここで、主イエスは、ユダヤ人たちが、「『我々の神だ』と言っている」そのお方を実は知らないのだ、と痛烈な指摘をされます(54、55節)。しかし、ユダヤ人たちは、「『我々の神だ』と言っている」わけですから、知識としては、ちゃんと知っているはずです。「え、そんな方いらっしゃったのですか」、とそういう意味で知らないと指摘されている訳ではないのです。

 では、神を知るとはどういうことなのか、それが彼らの祖先アブラハムを通して示されます。

「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。(56節)」、ここで言われているわたし、というのは当然主イエスです。つまり、神を知るというのは、キリストの日を楽しみにすることなのです。それどころか、キリストの日を見て、喜ぶこと、これが神を知ることである、と定義できましょう。しかし、アブラハムにとって、当然キリストの日は気の遠くなるほど遠い未来のことでした。つまり信仰なのです。信仰によってキリストの日を見て喜ぶ、これが神を知ることなのです。これは、あの信仰者列伝と呼ばれるヘブライ書11章の御言葉とピッタリ重なります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。(ヘブライ11:1、2)」、アブラハムが、キリストの日を見て、喜んだと過去形で言われているのは、この信仰のゆえにです。その時、アブラハムとキリストの日までの莫大な時間的隔たり、それは問題ではありませんでした。実に信仰は、まだ実現していない未来の喜びを過去形にしてしまう絶大な力を持っているのです。

 しかし、ユダヤ人たちは、信仰ではなくこの世的な視点で、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか(57節)」と反論しました。それに対する主イエスの回答が非常に大切です。「イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』(58節)」、ここで、まず主イエスは、「はっきり言っておく」、と断りを挟みます。これは、今まで度々繰り返されてきた主イエスの非常に大切な宣言を用意する定型句です。ギリシア語の本文では、アーメン(ἀμὴν)と言う字が繰り返される、「アーメン、アーメン、レゴー、ヒューミン、(Ἀμὴν ἀμὴν λέγω ὑμῖν)」、と言う表現になりまして、私たち罪人の救いや、永遠の命に関わる非常に大切な真理が続きます。それが、「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」、これでありました。これも繰り返しになりますが、「わたしはある」、これはギリシア語であの「エゴー・エイミー(ἐγὼ εἰμί)」でありまして、生ける真の神、イスラエルの神の称号に他なりません。聖書でこれ以上ない威厳に満ちた神の名で、このヨハネ福音書8章では、「わたしはある」この「エゴー・エイミー(ἐγὼ εἰμί)」が幾度も繰り返されてきた上に、ここでまた最後に主イエスの口から「エゴー・エイミー(ἐγὼ εἰμί)」が宣言されるわけです。そして、この「エゴー・エイミー(ἐγὼ εἰμί)」が、イエスは何者かに最終的な回答を与えている訳です。

 この宣言がなされたとき、必ず開きたいのが、出エジプト記3:14です。「神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」、この通りです。この後の節で、「わたしはある」が、「とこしえにわたしの名」、と主なる神は言われます(出エジプト記3:15)。つまり永遠から永遠まで、神は「わたしはある」、と呼ばれる方である、そういう意味です。

 そして、実は、「わたしはある」、と言うこの神の名が、最初に宣言されたのはこの場面で、最初にこの名を耳にしたのは、モーセであったのです。しかし、本日の個所で、主イエスは、「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」と宣言されました。アブラハムは、モーセから見ても祖先であり、500年くらい前に地上を生きた信仰者でした。もちろん、主イエスの周りにいたユダヤ人たちにとっては、それは周知の事実でした。「わたしはある」、この神の名を最初に聞いたのはモーセであったことを知らないユダヤ人は一人もいませんでした。そのど真ん中で、主イエスが、「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」、と宣言された時の衝撃は如何許りであったでしょうか。これは、私こそイスラエルの神、生ける真の神である、そう言う意味だからです。イエスは何者か、ここでは、主イエスご自身の口から、「わたしはある」、とその正体が示されたのです。そして、この衝撃の大きさは、この直後ユダヤ人たちのとった行動で示されます。「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。(59節)」、このように、「わたしはある」、この主イエスに対して、彼らは、石打の刑で殺そうといたしました。

 この仮庵の祭りで語られた主イエスの説教の聞き手は、「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた(8:31)」、とありますように、イエスを信じたユダヤ人たちでした。しかし、彼らは最終的には、束になって、主イエスを殺そうと石を取り上げたのです。これが、イエスを信じたユダヤ人たちのその信仰の本当の姿でありました。彼らは、アブラハムが楽しみにして、そして信仰によって、それを見て、喜んだキリストの日に居合わせながら、さらにキリストを目撃しながら、他ならぬそのキリストに向かって、石を取り上げたのです。つまり、キリストの日というのは、たとえその目で目撃していても、信仰がなければ、わからないどころか、それを破壊しようとさえしてしまうそのような日なのです。

 そこで、やはり問われるのは信仰なのです。ですから、「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである(56節)」、実に、これがキリスト教信仰の本質です。アブラハムを筆頭とした旧約の信仰者は、救い主がこの世に来られ、救いを実現してくださるその日を待ち望みました。そして、それは、2000年ほど前に主イエスが天から降り、罪なき生涯と十字架と復活によって実現されました。では、私たちにとってキリストの日とは何でしょうか。「わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」、と私たちに約束されている、「わたしの日」、すなわちキリストの日とは。それは、主イエスキリスト再臨の日です。私たちもまた、「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、信仰を抱いて死にました(ヘブライ11:13)」、この信仰者列伝の中を今歩んでいるのです。

 世界中で争いが続き、そこでは、目を覆うような残忍な行為に何のお咎めもありません。自然が破壊され、環境はものすごい勢いで悪化し、多くの生き物が生活の場所を奪われている。これからどうなってしまうのだろうか、これが現在の世界ではないでしょうか。

しかし、私たちキリスト者の務めは、これからどうなってしまうのか、と憂うことではありません。どのような世になりましても、その現実の中で、キリストの日に備え、福音宣教を続けていくことです。暗き世に十字架の言葉を宣教することです。暗いから光が輝くのです(ヨハネ1:5)。キリストの日を楽しみに、いいえ、信仰によってそれを見て喜びながら、御言葉の宣教に勤しもうではありませんか。