2024年04月14日「イエスは何者か(前)」

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イエスは何者か(前)

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 8章48節~59節

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聖句のアイコン聖書の言葉

48節 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、
49節 イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。
50節 わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。
51節 はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」
52節 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。
53節 わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」
54節 イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。
55節 あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。
56節 あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」
57節 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、
58節 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
ヨハネによる福音書 8章48節~59節

原稿のアイコンメッセージ

「イエスは何者か(前)」ヨハネ8:48〜59

本日の御言葉からの段落で7章から続いてきた仮庵祭での出来事のその長い記事が終わります。そういう文脈構造上、この段落は、仮庵祭での記録の結論部分として非常に重要ですので、今週と来週で、前編と後編の2回に分けて、本日は、48節から53節までを、次週は54節以下の部分を中心に教えられたいと願っています。

ここで主イエスは、「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。(51節)」、という非常に大切な宣言をされました。これは以前学びました「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている(5:24)」、この御言葉の要約であり、繰り返しです。この地上の命と永遠の命との連続性が、聖書全体の中でも極めて重要でありまして、これが、このヨハネ福音書で示されている永遠の命の法則であります。

 この同じ真理は、この後11章で記録されているラザロが生き返る場面でも宣言されています。

 「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(11:25、26)」

これは、キリスト者の葬儀には、必ずと言ってもいいほど与えられる御言葉です。それは、これがキリスト教信仰そのもので、ここにこそ私たちの本当の慰めがあるからです。

ですから、「その人は決して死ぬことがない(8:51)」、「永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている(5:24)」、そして、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない11:26)」、とヨハネ福音書は、この永遠の命の法則を三度繰り返すことで、地上の死が決定的な問題ではないことを明らかにしているわけなのです。

 ここに集う私たちも、必ず肉体の死を迎える日がまいります。しかし、一体それがなんでしょうか。「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」、この主イエスの約束に立つ以上、私たちにとりまして死の床さえも希望の場所に変わるのです。この世が、一番恐れる肉体の死さえも、私たちキリスト者にとりましては、永遠の命の通過点に過ぎないのです。

 しかし、これ以上ないこの永遠の命の約束を前にしたユダヤ人たちは、「わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか(53節)」、と回答します。彼らは、地上の命と永遠の命の連続性に目が開かれずに、地上の命が永遠に続くと勘違いして、「アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ」、この事実を根拠に主イエスに詰め寄るのです。ユダヤ人たちは、あくまでも、肉体の死を終点とした、地上の命の範囲内でしか議論できないのです。つまり、永遠の命を度外視した思想に彼らは立っていたということで、これは信仰的な堕落です。彼らの信仰は形式的で、この世の現実が、信仰よりもはるかに重要であったわけです。これが当時のユダヤの宗教的指導者たちの姿でありました。

確かに旧約聖書には、キリストの復活のような決定的な復活の記録はございません。しかし、それを指し示す御言葉は、ところどころで記されています(イザヤ25:6〜10参照)。

すなわち、彼らは、神の言葉を委ねられていながら、神の言葉よりも、この世の言葉に立って生きていたのです。ですから、結局大切なのは、御言葉に立つのか、立たないのか、このことなのです。

 そういう視点で、本日の御言葉を読み返しますと非常に大切なことに気が付きます。

 それは、主イエスが、ご自身の言葉と永遠の命を結びつけていることなのです。

「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。(51節)」

先ほど、ここで示されている永遠の命が、このヨハネ福音書の核心であり、三度繰り返される永遠の命の法則である、ということを確認いたしました。ここでは、「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」、と主イエスは約束されています。先ほど引用しました5章の方でも、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている(5:24、)」、とこのように主イエスは宣言されていました。

 つまり、わたしの言葉=永遠の命、と申し上げてもいいくらいに両者は一体的なのです。わたしの言葉、それはキリストの言葉であり、さらに言えばそれは神の言葉です。

 何度も確認してまいりましたように、この言葉という字は、ギリシア語で、あの「ロゴス(λόγος)」です。この福音書で真っ先に謳われる「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった(1:1)」、この「ロゴス(λόγος)」です。そして、これも幾度となく確認してまいりましたが、この言葉と訳される「ロゴス(λόγος)」は、「出来事」とも訳すことができます。神の言葉=神の出来事、すなわち、神の言葉は必ず出来事となって実現する、これが聖書の立場であり、約束です。

その通り、神の言葉は、イエスキリストによって、神の出来事になりました。それは、永遠からの神の言葉・λόγοςであり、天地創造の前から御父とともにおられたキリストが、時満ちて天から降り、十字架と復活によって、私たち罪人に永遠の命を与えて下さったことによってです。そして、それゆえわたしの言葉=永遠の命なのです。キリストが神の言葉でありますから、わたしの言葉=イエスキリスト=永遠の命と申し上げてもよろしいでしょう。永遠の命は、神の言葉であるキリストそのものであって、キリストは、言葉として、この天の父から与えられた使命を成し遂げて御父の許に戻られたのです。

 そして、これこそは本日私たちをこの礼拝に招いたイザヤ書の御言葉の実現なのです。

 「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ書55:10、11)」、御言葉に鳥肌が立つ思いであります。

 主イエスは、まるで雨や雪のように、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはなかったのです。むなしく天の父のもとに戻らずに、天から降り、十字架でその使命を果たされた上で、復活された後、天に戻られ、父の右に座られたのです。そしてこれが、天の父が御子イエスに求められた栄光(50節)の全体像なのです。

 栄光の神の御子が、まるで雨や雪のように、天から降り、人に命を与えて天に戻っていかれた。

 「それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える」、なんと麗しい御言葉でありましょうか。ここには瑞々しい命が満ち溢れているではありませんか。

イエスは何者か、それは永遠からの神の御子であり、神の言葉、神の出来事、十字架の救い主、暗き世に輝く栄光の主であります。

 では私たちは何者か、今この言葉が私たちに委ねられている。

それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える、これが福音宣教ではございませんか。

 貧しく、取るに足らない私たちも、ただ主イエスのゆえに、むなしくは、わたしのもとに戻らない、それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす、この器として用いられています。(讃美歌533番)