2024年04月07日「主イエスのお役に立ちたい」

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主イエスのお役に立ちたい

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 8章39節~47節

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39節 彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。
40節 ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。
41節 あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、
42節 イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。
43節 わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。
44節 あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。
45節 しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。
46節 あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。
47節 神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」
ヨハネによる福音書 8章39節~47節

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説教の要約

「主イエスのお役に立ちたい」ヨハネ8:39〜47

前回予告しましたように、本日の箇所では、ユダヤ人たちの本当の父が誰であるかが、ついに明らかにされます。そして、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている(44節)」、と主イエスが言われますように、それは悪魔なのです。

主イエスの道を備えるために遣わされた洗礼者ヨハネも「蝮の子らよ」とユダヤ人たちに叫び、「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる(マタイ3:7〜9)」、と悔い改めを勧告しました。

 どうして、ユダヤ人たちが、悪魔の子らであるか、それは、「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ(43節)」、この主イエスの言葉で示されています。もちろん、これはよその国の言葉が理解できない、という意味ではありません。ユダヤ人たちは主イエスと同じ言語を使っていたわけで、ちゃんと耳に入り文法的にも正確に理解していたのです。しかし、それでもなお、わたしの言葉を聞くことができない、これがユダヤ人たちの姿でした。まるで、母国語ではないかのように、聞き取ることができない。実は、これなのです。

神の言葉が、わかるのか、わからないのか、それは、同じ国語であるとかないとかの問題ではないのです。同じ言語を使っていても分からないということが普通にあるのです。これは、昔も今も同じです。「イエスは主である」といえば、日本語が理解できる方なら、ちゃんと聞き取れます。しかし、多くの方がそれを聞き取ることができないことは確かです。まるで、母国語ではないかのように、聞き取ることができないのです。つまり信仰の世界におきましては、その信仰者の国籍が神の国であるかないかで、神の言葉が理解できるかできないかが決まるわけなのです。そして、これが主イエスとユダヤ人たちが決裂した理由です。実際、言葉は人間関係の中で計り知れない役割を持っています。人は言葉で生きている、と申し上げても決して過言ではありません。喜び、悲しみ、怒り、それは言葉となって表現されることで初めて正確に伝わります。これは、信仰の世界でも言えることなのです。

このことについて主イエス様は、「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである(47節)」と結論づけます。繰り返すようですが、神に属しているのかいないのか、これが主イエスを信じるか信じないか、あるいは真理を理解できるかできないか、このいずれかを分ける、ということです。この主イエスの言葉は、世の終わりまで続く神の国の福音宣教という務めの中で非常に重大なもので、このことについて、二つの点を確認します。

一つ目は、未信者に対する伝道のアプローチの問題です。先述の通り、福音宣教の言葉を、多くの方が聞き取ることができないことは事実です。私たちの福音宣教の言葉をほとんどの方がその意味も内容もわかりますが、信じることはできない、それは、「神に属していないから」、すなわち神の国の住民ではないからなのです。しかし、だからと言って、私たちキリスト者がほんのわずかでもこの世の人たちよりも優れているわけではありません。それは、「私たちの父は神である」、と大風呂敷を広げたユダヤ人たちの立場です。「神に属する者は神の言葉を聞く」、この私たちが神の言語を理解できるのは、ただ神の一方的な恩恵であって、それ以外ではありません。

これはこの福音書のプロローグで、言を受け入れた私たちが、「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた(1:13)」、と明言されている通りです。

つまり地上的なあらゆるもの、もちろん、私たちの性格や行い、あるいは血筋や家系のようなものは、ことごとく否定されます。アブラハムの子であろうがあるまいが、それはどうでもいいことなのです。ただ神の一方的恩恵によって、私たちは神の言語を聞き取ることが許され、信仰が与えられ、新しい命に生まれることが許されたのです。その印が洗礼です。ですから、この世に対する私たちキリスト者の優位性どころか、私のようなものが救われた以上、救われない者など一人もいない、神にできないことは一つもない、これが私たちの立場です。未信者に対する伝道のアプローチは、上からではなく下からであり、私が救われたのにあの方が救われないはずがない、この確信と情熱からです。

 二つ目、福音宣教は外へと向かう活動ですが、その場合、信徒の交わり、すなわち教会の内部が非常に重要である、ということです。

 すぐる週、今年度の第一回の東部中会定期会が行われ、無牧の群れに牧師が与えられました。この数年間、私たちの東部中会では、教会トラブルが常態化していまして、多くの場合は、牧師がその教会を去ることで、ひとまず群の混乱を抑えようと試みます。どうして教会トラブルが起こるのでしょうか。多くの場合、それはその信徒の交わりで言葉が正しく機能していないからです。

私たちは、神によって生まれたキリスト者であると同時に、罪人でもあります。この私たちの肉体に、そして魂に残存する罪が、言葉を歪め、言葉の機能を低下させているのです。しかし、それが教会ではないでしょうか。教会トラブルがなければパウロ書簡のほとんどは不要であったでしょう。

神によって生まれたキリスト者同士で、言葉が伝わらないから、言葉が対立するから、さらにいえば言葉が凶器にもなり得るから、教会トラブルは起こるのです。しかし、そこで改めて思い起こさなければならないのは、私たちは、神の言語を理解できる同じ神に属するものである、ということです。

ですから主イエスとユダヤ人が決裂したような事態が、教会トラブルで起こってはならないのです。それは、神の民である私たちが、神の国の国語である最も大切な神の言葉を理解することが出来るからです。それゆえに、私たちの父は決して悪魔ではなくて、主イエスの父なる神だからです。教会の中で、どんなに対立や諍いが起こっても最低限これだけは認めあえるはずです。

そして、その場合、必ず一つの共通点がございます。それは「イエス様のお役に立ちたい」ということです。私たちは、私たちのために十字架で死んでくださって、私たちの罪を全て洗い流して下さった上に、永遠の命まで与えて下さった「イエス様のお役に立ちたい」から、共に教会に仕えているのです。それぞれ賜物は違います。性格も違うし、育った環境も違う、しかし、イエス様のお役に立ちたいという願いは全く違わないはずです。そして、実は「イエス様のお役に立ちたい」から問題も起こるのです。「イエス様のお役に立ちたい」から、先走ってしまったり、対立が起こったり、ある時には裁いてしまったり、しかしこれが教会なのです。どんなに対立しても、どんなに深い溝ができても、「イエス様のお役に立ちたい」、この共通点でそれは解消できないでしょうか。精算されないでしょうか。「イエス様のお役に立ちたい」、と強く願うこの同じ立場で助け合い、許しあい、尊びあって福音宣教に前進していく、これが教会です。その時、サタンの攻撃が一体何でしょうか。「イエス様のお役に立ちたい」、そして、他でもないそのイエス様はここにおられるからです。私たちは、どんなに大きな問題が起ころうが、ここには信徒、求道者も含めて、神に属さないものは一人もいないのです。

「イエス様のお役に立ちたい」、ここに、全ての教会トラブル解決の鍵があるように思えるのです。