2024年03月24日「十字架の真実」

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聖句のアイコン聖書の言葉

24節 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。
25節 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
26節 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
27節 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。
29節 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、
30節 十字架から降りて自分を救ってみろ。」
31節 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。
32節 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
33節 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
34節 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
35節 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
36節 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
37節 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
38節 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
39節 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
マルコによる福音書 15章24節~39節

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説教の要約

「十字架の真実」マルコ15:24〜39

本日から受難週に入りますので、今週と来週は、一度ヨハネ福音書の講解説教を中断して、今年はマルコ福音書の御言葉から、主イエスの十字架と復活の記事を共に教えられたいと願っています。

 イエスキリストが十字架に付けられる場面は、当然4つの福音書のいずれにも記録されています。しかし、そのいずれも、非常に簡潔にその場面を記録していまして、「イエスを十字架につけた」、これ以上は語りません。十字架刑の残酷さや悲惨さに聖書は触れないのです。

このマルコ福音書における主イエスの十字架の記録で見逃してはならないのは、「それから、兵士たちはイエスを十字架につけて(24節)」、この部分です。この「イエスを十字架につけて」、と訳されていますところは、ギリシア語の本文では現在形なのです。ギリシア語の現在形は、英語の現在進行形のように、動作の途中を示す機能を持ちますので、この部分は直訳しますと「兵士たちは、今イエスを十字架につけている」となります。ですから、まるで、今私たちの目の前で、主イエスが十字架に付けられているような描写がなされ、今もなお、神の御子イエスキリストは十字架にかけられた姿で私たちの前に晒されている、そのように御言葉が迫ってきます(ガラテヤ書3:1参照)。

イエスキリストは、およそ2000年前に、歴史的事実として十字架刑で殺されました。そして、3日後に復活されて、今主イエスは天におられます。しかし、それで、「めでたしめでたし」で終わるのはキリスト教ではないのです。復活がハッピーエンドのゴールにあって、それで十字架がチャラにされるような理解は大きな間違いです。復活は確かに大きな喜びでありますが、しかしその復活によって、十字架のその重みが、わずかでも軽くなることはあり得ないのです。神の御子の十字架、それは永遠の昔から、世の終わりに至る歴史全体の頂点にあり、この十字架を中心に、歴史は前後に作用している、このように理解するのが私どもキリスト者の立場です。

 その十字架の主イエスを、人々は好き勝手に罵り(29〜32節)、主イエスは息を引き取っていきます(33〜39節)。ここでは、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」、と記録されています。この記事の整合性を、日食や、パレスチナ特有の砂嵐に求めようとする研究者もいますが、それは無意味でしょう。たとえその日に日食が起こったことを突き止めても、それは科学的な発見であって、聖書の真理とは無関係であるからです。

ここで聖書が示しているのは神の沈黙です。神が沈黙した、そして全ての被造物が沈黙した。ここに十字架の真実があります。しかし、全ての被造物が沈黙した後で、人間だけが、「そら、エリヤを呼んでいる」などと、十字架の周りで騒いでいる姿も描かれているのです。ここでも、他の全ての被造物とは比較にならない人間の罪の重さを聖書は提示するのです。

 この十字架の神の沈黙の中で実現した二つのことがとても重要です。

 一つは、「イエスは大声を出して息を引き取られた(37節)」、と主イエスの死が報告された直後に「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた(38節)」、と記録されていることです。

この神殿の垂れ幕というのは、神の聖なる領域に、罪人が入ることができないように遮り、隔てるための機能を持っていました。それが、イエスの死によって、上から下まで真っ二つに裂けた、と聖書は報告するのです。この意味は、ヘブライ書で非常にわかりすく説明されています。

 「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです(ヘブライ書10:19、20)」、この通りです。「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています」、つまり、私たちは、神殿の垂れ幕の向こう側である神の領域へと入ることが許されるようになった、ということなのです。「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった」、これが、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」その意味なのです。

また、「罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません(ヘブライ書10:18)」とも聖書は言います。つまり、旧約以来要求されてきた子牛や穀物といった罪を贖うための供え物も不要になったということです。これがイエスキリストの十字架によって開かれた「新しい生きた道」なのであり、ここに旧約から新約への転換点があります。

 順序は前後しますが、もう一つは、神の沈黙に対する十字架上での主イエスの叫びです。「三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である(34節)」、実に、天の父との関係さえ断絶した暗黒の中で主イエスは死なれたのです。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、なんと悲しい響きを持つ叫びでありましょう。これを前に私たちも沈黙する以外ないのです。しかし、その沈黙は希望の沈黙です。実に、神が沈黙している時に、私たちの救いは実現したからです。これが十字架の真実です。

 神は今も沈黙しています。パレスチナで、ウクライナで、いいえ、世界の至る所で人間の罪が放置され、事態はどんどんひどくなっていく。理不尽なことが当たり前のように行われ、神に逆らう支配者が台頭している。しかし、そこにあるのは神の沈黙です。神様どうしてですか、と私たちは祈り続け、泣き叫ぶ時に、歴史上最も偉大な神の沈黙を思い出したいのです。歴史の中で最も人間の罪が台頭し、最も理不尽なことが行われたあの神の沈黙です。それが十字架の沈黙なのです。この十字架の沈黙は、私たちに絶対的な希望を与えます。今がどんなに悲惨であっても、それは決定的な問題ではない。神の沈黙の後には、逆転があり、必ず裁きと救い用意されているからです。十字架の真実は、その何よりの証拠であります。

この神の沈黙を前に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、と主イエスが叫んだ、これほど理不尽な姿はありません。いいえ、あるのかもしれない。それは、この罪なき神の御子の十字架によって、罪人の頭のような汚れた私が救われ、それどころか今永遠の命に生かされることです。しかも無償で。こんな馬鹿げた話はありません。これこそ理不尽の極みです。しかし、これが福音なのです。神は愚かなほどに私たちを愛し、御子を十字架に付けました。私たちは、この神の愚かさに対して、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てにならなかったのか」と叫ぶ以外ないのではありませんか。私たちに対する神の無尽蔵の愛に、今私たちの沈黙は賛美に変わるのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、この主イエスを襲った理不尽さが、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てにならなかったのか」、と私たちが救われる理不尽さに変わったのです。この受難週私どもは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てにならなかったのか」、と改めて奇しき神の御業であるイエスキリストの十字架を仰ぎ悔い改めようではありませんか。