2024年03月17日「本当の自由」

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聖句のアイコン聖書の言葉

30節 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。
31節 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
32節 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
33節 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
34節 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
35節 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。
36節 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
37節 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。
38節 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」
ヨハネによる福音書 8章30節~38節

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説教の要点

「本当の自由」ヨハネ8:30~38

先週、今週と2回にわたって、同じ聖書箇所から教えられています。

本日は、主イエスが、「真理はあなたたちを自由にする(32節)」、と言われたのに対するユダヤ人の反論の部分からの箇所を中心に学びます(33〜38節)。

ユダヤ人たちは、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか(33節)」、と主イエスに詰め寄りました。この「自由にする」という字は、同時に「解放する」という意味が強く、とりわけ奴隷制度が当たり前に存在していたこの時代は、奴隷でない者たちにとっては、非常に違和感を感じる言葉でありました。主イエスが、「真理はあなたたちを自由にする」と言われました時、その周りにいたユダヤ人にとってみれば、「あなたたちは全て奴隷である」、と言われたも同然であったのです。

「アブラハム」というのは、ユダヤ人にとって、信仰の父と呼ばれる偉大な父祖でありますが、それ以上に、この名前が示すものは神の契約なのです。「アブラハム」=「契約」と申し上げてもいいくらいに両者は切っても切れない関係にあり、「わたしたちはアブラハムの子孫です」、と彼らが言います時、それは「わたしたちは契約の子孫です」、という意味なのです。過去彼らは、確かにエジプトの奴隷であったし、バビロンに連行された捕囚の民であった、しかし、それらは、神の契約の領域で行われていたのに過ぎないという理解です。だからそれらの状況にあっても、解放が前提にあって、実際我々はその束縛から自由にされたではないか、と言えるわけです。そして、今もローマ帝国に束縛されているが、「アブラハムの子孫」である以上、これもまた神の契約の領域内にあるわけで、それさえも解放に向かうプロセスに他ならない、このようにユダヤ人たちは信じていたのです。彼らは、どのような状況にあっても、神の契約の中では自由である、という理解で反論しているわけです。

しかし、それに対して主イエスは、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」、と言われました。

主イエスは、「アブラハムの子孫」であろうが、「契約の民」であろうが、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」、とここで言われたわけです。そして、これがイスラエルの歴史の正しい理解です。ただ契約に忠実であられる神の忍耐と憐れみによって、彼らは「アブラハムの子孫」であることが許されているのに過ぎないのです。むしろ「アブラハムの子孫」、あるいは、「契約の民」、という言葉が示すものは、神の憐れみの大きさと、それに対するイスラエルの罪の大きさに他ならないのです。彼らは、ブランド物で身を固めているだけで、そのブランド物には価値があっても、彼ら自身には価値がない、そのような状態であったわけなのです。ですから、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」、この主イエスの指摘は、彼らの化けの皮を剥いで、その中身を曝け出すような響きを持っていたのです。

その上で、主イエスは、真の自由を宣言されます。「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。(36節)」、ここでは、「もし子があなたたちを自由にすれば」、とありますように、御子である主イエスが、罪の奴隷を解放する権威さえ持っておられることが明らかにされています。「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている(37節)」、と主イエスは、彼らのアブラハムブランドはそのまま認めています。しかし、そのブランドと彼らの実態とがかけ離れていることを指摘するわけです。彼らの中身は、上に羽織っている衣装に相応しくないのです。それは、「あなたたちはわたしを殺そうとしている」、このユダヤ人たちの姿から決定的となります。

 その上で大切なのは、「わたしの言葉を受け入れないからである」、と主イエスが言われたことです。この「わたしの言葉」、という表現は、先週学んだ31節で確認しましたように、ここではイエスと言葉が一体化しているのでありまして、これが神学そのものである、ということでした。ところが、ここでは、「わたしの言葉を受け入れないからである」、と主イエスが言われていまして、「わたしの言葉にとどまる」、この31節とは対照的な姿がここで示されています。31節とこの37節が、コントラストになっているわけです。さらに、「受け入れないからである」、この部分はギリシア語の聖書では、面白い表現になっています。直訳しますと、「余地を持っていないからである」、そういう言い回しなのです。

つまり、ユダヤ人たちは、「主イエスの言葉に余地を持っていない」、とこのように指摘されているのです。これも先週学びました神学の機能と正反対の状態です。神学の機能の一つ目は、主イエスの言葉が、私たちの弱さや疑い、さらに不信仰や罪の入る余地を与えないことです。ところが、ユダヤ人たちは、そのイエスの言葉に余地を与えない、と真逆なのです。ここもコントラストなのです。

 「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる(36節)」、と主イエスが宣言されます時、偽りの自由という対象概念が必然的に浮かび上がってくるわけです。それが、「アブラハムの子孫」、このアブラハムブランドです。「アブラハムの子孫」、という肩書きを羽織っていたユダヤ人たちの中身は、罪の奴隷であったのです。彼らは、カモフラージュしていたわけです。大切なのは、上っ面ではなく、その中身なのです(サムエル記上16:7を参照ください。)。

 しかし、わたしたちも似たり寄ったりではないでしょうか。中身が問われた時、それに耐えられる方が、一人でもいらっしゃいますでしょうか。わたしたちもまた、明け透けにされたのなら、罪にまみれ、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」、その一味ではございませんか。そうです。私たちは、1日たりとも罪を犯さない日さえない、惨めな罪人です。ブランドもので身を固めるかのように、カモフラージュしていないと、恥ずかしくて表にも出られない、それがこの私のありのままの姿です。

 しかし、その惨めな罪人が一方的に赦され救われるから福音なのです。私たちの中身は、罪まみれでありましても、それは決定的な問題ではないのです。一つだけ、しかも確実に救われる方法があるからです。それはキリストを着ることです。この罪深い中身をキリストによってカモフラージュしていただくことなのです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です(ガラテヤ書3:26〜29)」この通りです。

 私たちは今もこれからもその中身は汚れています。しかし、洗礼を授けられキリストを着た時に、まるでキリストのように、神の子として見なされる。この世の身分や立場、人種や性別の分け隔てなく、必ず救われる、そしてこれこそが本当のアブラハムの子孫であり、契約による相続人に他ならないのです。つまり、中身はどうであれ、悔い改めて、罪も咎もあるまま、キリストに立ち帰る、これが全てなのです(讃美歌517)。本当の自由はそこにしかございません。「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」、この主イエスの約束に縋って、私たちは常にキリストに立ち帰る、すなわち、それは、週ごとに復活の主に見えるために礼拝に与ることなのです。