2024年03月10日「真理はあなたたちを自由にする」

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真理はあなたたちを自由にする

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 8章30節~38節

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30節 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。
31節 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
32節 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
33節 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
34節 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
35節 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。
36節 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
37節 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。
38節 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」
ヨハネによる福音書 8章30節~38節

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説教の要点

「真理はあなたたちを自由にする」ヨハネ8:30~38

 今週と来週の2回に分けて、この箇所から教えられたいと願っています。そして本日は、まずヨハネ福音書の神学的頂点とも言えます32節までの御言葉を中心に教えられたいと思います。

ここで主イエスは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」、と真の信仰者の基準が、「わたしの言葉にとどまる」ことであると言われました。

この表現が二つの点で極めて重要です。

 一つは、ここで「わたしの言葉」と言われているところです。この「言葉」という字は、ギリシア語のロゴス(λόγος)です。そして、この「わたしの言葉」、これはもちろん「イエスの言葉」という意味ですが、単にイエスの所有している言葉とか、イエスから発せられる言葉、というニュアンスではないのです。日本語では訳しづらいのですが、もともとのギリシア語では、「イエスという言葉」あるいは「イエスである言葉」そういう意味なのです。分かりやすく言えば、「わたしの言葉」、と言われます時、ここではイエスと言葉が一体化しているのです(参照:「初めに言があった。(ヨハネ福音書1:1)」)。

二つ目は、この「とどまる」という言葉の重要性です。実は、この福音書におきまして、この「とどまる」という字は、主イエスと信仰者との一体性を示すために用いられていて、特に聖餐式の本質が、主イエスの口を通して語られる御言葉で、それが謳われています。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(6:56〜57)」、この「いつもわたしの内におり」、の「おり」という字、さらに、「わたしもまたいつもその人の内にいる」、この「いる」という字、これらが本日の御言葉で「とどまる」と訳されている言葉と全く同じです。ここでは、聖餐式のパンと盃に与る信仰者とイエスキリストが一体である、すなわち、私たちは主イエスのうちに「とどまる」、そして主イエスは私たちのうちに「とどまる」、と繰り返されることによって、この両者の結合が、切っても切れないものであることが明確にされています。しかも、ここでは、「またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」、と追加されることによって、主イエスが天の父と一体であるがゆえに、私たち信仰者もその主イエスに結び付けられて、天の父と一体になって生かされていることまで示されています。実に、これが「とどまる」、という私たち信仰者の状態なのです。天の父と主イエスとの結合、これがいかに偉大なものであるか、改めて私たちは思い巡らしたいのです。

その上で、さらに大切な御言葉が続きます。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(32節)」、これは、わたしの言葉にとどまる者に語られた主イエスの約束で、ここでは、「真理」、そして「自由にする」、という大切な言葉が使われていまして、この両者を正しく理解することが大切です。

 まず「真理」という言葉については、何度か引用して参りましたが、この後主イエスご自身が「私は道であり、真理であり、命である(14:6)」と宣言されていて、「真理」というのは、主イエスご自身であるということが明らかにされています。「真理」=「イエスキリスト」、これは今までも幾度か確認してまいりました。しかし、さらに踏み込んで、このヨハネ福音書で「真理」という字を一つ一つ丁寧に調べて見てみますと(24回使われています)、これはイエスキリストの救いの御業との関係で使われていることがわかります。つまり、ターゲットの中心を射抜くようにはっきり定義するのであれば、ヨハネ福音書が言います「真理」というのは、イエスキリストの十字架そのものです。「真理」=「十字架」と申し上げてよろしいくらいに両者は分かち難く結合しています。すなわち、「真理はあなたたちを自由にする」、これは、「イエスキリストの十字架はあなたたちを自由にする」、と言い換えることも可能です。私たち罪人に示された神の真理、それは「イエスキリストの十字架」に集約され、この十字架こそが「真理」の土台であって、あらゆる真理はその上に立てられるものに過ぎないのです。

 そして、もう一つ大切な言葉が、この「自由にする」、これです。意外なことに、実は、共観福音書にはこの字はみられません。そして、ヨハネ福音書で、この「自由」という字が使われるのも、本日の聖書箇所だけなのです。ですから、ここで宣言されています「真理はあなたたちを自由にする」、このキリストの言葉が重大で、しかも非常に鋭いものとしてこのヨハネ福音書全体を支えていることがわかります。見逃してはならないのは、この「自由にする」、という動詞の時制が未来形であるということです。ですから、主イエスが、「真理はあなたたちを自由にする」、と言われた時、主イエスの周りにいたイエスを信じた多くの人々は、誰一人自由ではなかったのです。この「自由にする」という言葉は同時に「解放する」と訳すことも可能で、奴隷制度が普通にあったこの時代は、特に「自由にする」の正反対は「奴隷になる」という状態でありました。つまり、イエスを信じた多くの人々は、この時点で全て奴隷である、と主イエスは言われたも同然なのです。それで、これは次週学ぶことになりますが、この主イエスの宣言に腹を立てたユダヤ人たちが、ここから主イエスに反論していくわけです。

 今日最後に確認したいのは、この「自由」という字を罪人の救いの中心に据えて福音を宣教したパウロの神学なのです。実は、この「自由にする」という動詞は、新約聖書で7回しか使われていませんが、この節で使われる以外は、全てパウロがとても大切なところで使っています。特に福音の頂点と呼ばれ、私たちも以前丁寧に学びました、あのローマ書のクライマックスと言える8章の最初でこの字が使われて、福音そのものが鮮やかに提示されています。

 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:1〜3)」、ここで、「罪と死との法則からあなたを解放したからです」、とありますこの「解放する」という字が、本日の御言葉では「自由にする」と訳されている同じ言葉です。そして、これこそがパウロが全力で宣教し続けた真理ではないでしょうか。ここには真理であるキリストの十字架が見事に謳い上げられています。罪からの解放、死からの解放、律法からの解放、この私たちに与えられた自由が見事に謳いあげられ、「真理はあなたたちを自由にする」、このキリストの宣言が非常に具体的に説明されています。もはや、疑う余地がないほどに、私たちに与えられた自由をここに詰め込んでいます。いいえ、私たちのキャパシティではとても収まりきれずに、それを超えてこの世に溢れ出している。これが真の神学ではないでしょうか。十字架の言葉が、私たちの弱さや疑い、さらに不信仰や罪の入る余地を与えない、それどころか、私たちを満たし溢れ出していく、これが神学の機能であり、その時、「真理はあなたたちを自由にする」、これが私たちの現実とされるのであります。