2024年03月03日「『わたしはある』がわかるとき」

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『わたしはある』がわかるとき

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 8章25節~29節

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25節 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。
26節 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」
27節 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。
28節 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
29節 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
ヨハネによる福音書 8章25節~29節

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説教の要点

「『わたしはある』がわかるとき」ヨハネ8:25~29

 今私たちは、聖書全体の中でも非常に重要な箇所から教えられています。それは、「わたしはある」、とここで主イエス様が繰り返し言われることによって、ご自身こそが生ける真の神であることを宣言されているからです。

本日も、この「わたしはある」、という主イエスの宣言によって極めて大切な真理が示されます。

ここでは、「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう(28節 )」、と主イエスは言われます。この「人の子を上げたとき」、と言うのはどのような時を指すのでしょうか。

 それは、十字架の時です。ですからわかりやすく言い換えれば、「あなたたちは、私を十字架につけた時に初めて、『わたしはある』ということがわかる」、と主イエス様は言われているのです。

 逆に言えば、主イエスが十字架について下さらなければ、私たち人類は主イエスが神の御子であると言うことがわからない、そう言う意味です。主イエスは、水を葡萄酒に変えました。38年倒れていた人を立ち上がらせました。五つのパンと二匹の魚から5千人の人々の腹を満たし、養いました。しかし、それらのいずれも、主イエスが神であるということを理解させることにはならないのです。

実は、主イエスは、すでに同じ表現を用いて十字架の予告をされていました。「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである(3:14、15)」これです。ここで、「人の子も上げられねばならない」と言われているのも主イエスの十字架を指し示しています。そして、ここではその主イエスの十字架が「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るため」であることを明確にしています。これが主イエスの十字架の目的なのです。ですから、「人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ」がわかる、これもその目的は罪人の救いなのです。神の御子を十字架で殺してしまったのであれば、本来ならば誰一人助かりません。この世のあらゆる悪事が見逃されても、神の御子の十字架が許されるはずはないからです。しかし、驚くべきことに、事実はその正反対で、神の御子の十字架によって私たちの全ての罪が帳消しにされたのです。これこそが福音なのです。

 そして、これが天の父の御心であり、それゆえ、「わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」、とこのように主イエスは言われているわけなのです。

 さてその上で主イエスは言われます。「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。(29節 )」、繰り返し確認して参りましたが、この「わたしをお遣わしになった方」、と言うのは天の父です。その天の父が、「わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない」、と主イエス様が言われます時、主イエスはこの地上で一人になる、と言うことです。今主イエスに群がる群衆も、弟子たちでさえも主イエスを見捨てて離れていってしまうからです。この世的な視点では、主イエスはすべての人に見捨てられ、虚しく十字架で殺されてしまう。いいえ、天の父さえも主イエスを見捨てられたことを、十字架の上で主イエスは叫びました「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのか(マルコ15:34)」、と。実際主イエスは、天の父との関係さえ絶たれた苦しみの中で、十字架上で死んでいかれたのです。しかし、それでもなお主イエスは、天の父が「わたしと共にいてくださる」と言う確信を抱きながら十字架の道を歩まれているのです。この揺るがぬ信頼が復活のプロローグとなっているのではないでしょうか。「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない」、すなわちこれは、主イエスの復活のプロローグなのです。

ですから、実に本日の御言葉は、主イエスの十字架と復活を同時に指し示す上でも重要なのです。

しかし、それでもなお、十字架の方に強調点があることは明らかです。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ」がわかる、これがこの御言葉の中心だからです。

ここで言われている「あなたたちは」と言うのは直接的には今主イエスを取り囲むユダヤ人たちです。しかし、広く言えば、すべての人間です。私たちもまた、「人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ」がわかる、すなわち、私たちもまた主イエスの十字架によって、主イエスが神の御子であることが初めてわかる、とここでは言われているわけです。しかも、「あなたたちは、人の子を上げたときに」、と言われていますように、主イエスを十字架につけるのは私たちに他なりません。

つまり、私の罪が主イエスを十字架につけた、これを理解した時に、初めてイエスが神の御子であり、救い主である、と言うことがわかる、と主イエスは言われるのです。主イエスの十字架と無関係に信仰は起こり得ないのです。

 求道者で、なかなか信仰が与えられない、と言う方が少なくありません。よくお話を伺ってみますと、その場合、イエスキリストの復活がどうしても信じられない、と言うのがその理由であることが多いのです。イエスが十字架について殺された、これは歴史的事実でありますし、このキリストの十字架を受け入れない人は、ほとんどいらっしゃいません。

しかし、実は、信仰は、ナザレのイエスの十字架という、その客観的事実を受け入れればそれで十分なのです。その上で大切なのは、そのナザレのイエスの十字架とこの私との関係なのです。そしてそれは、主イエスの十字架が私のためであるのか、あるいは、私とは無関係であるのか、このいずれかなのです。自らの罪を省みて、救われようがないことを理解し、そこから死という現実に目を向ける時、そこには十字架の主イエスに頼らざるを得ない自分がいるはずなのです。

信仰は、十字架の主イエスを仰ぐことから始まります。この十字架の主イエスに悔い改めるとき、与えられる賜物が信仰なのです。これが悔い改めと信仰との関係でもあり、信仰というのは私たちの決意や意志から生み出されるものではなくて、主なる神に与えられるものなのです。悔い改めの果実が信仰で、実は復活は、その上で希望として必ず与えられる恵みで、これが「復活信仰」の全体像です。歴史的事実として復活のあるなしを検証する議論で信仰は決して生まれません。信仰は論理ではなくて、恵みだからです。十字架に縋るしかない砕かれた罪人にだけ信仰は与えられるのです。

 復活が信じられないという方、とりわけ大切な家族や友人に伝道する時、復活の出来事の真理を説明するのは遠回りであり、効果はあまり期待できないと思います。私たちの主が十字架のイエスキリストであり、その神の御子の十字架が私たちのためであった、つまり、神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された、この十字架の真理をそのまま伝えることです。これが理解できれば、死者の復活の論理的な説明など不要であり、そもそもそれはできません。実に、「人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ」がわかる、と主イエスが言われている通り、十字架の救いを愚直に叫び続ける、これが福音宣教なのです。(Ⅰコリント2:1、2を是非参照ください。)