2024年02月25日「『わたしはある』と命」

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『わたしはある』と命

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 8章21節~24節

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21節 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
22節 ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、
23節 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。
24節 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
ヨハネによる福音書 8章21節~24節

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説教の要点「『わたしはある』と命」ヨハネによる福音書8:21~24

 ここで、主イエス様は、主イエスを取り囲むユダヤ人と、ご自身との決定的な違いを繰り返されます(23節)。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している」、さらに「あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」、結局、これは同じこと言われているのでありまして、この繰り返しによって、その隔たりの大きさがさらに強調されているわけなのです。「下のものに属している」さらに「この世に属している」以上、地上的な価値観に支配され、その場合、その命も地上的な限界を超えることはできないのです。

「天地創造」と言われますように、天も地も主なる神様の創られた作品でありながら、よく観察してみますと、天と地というのは本当に対照的な被造物であると思うのです。地上には引力があって、まるで磁石のように人の体を引き付けて離しません。そして、そこから空を見上げると永遠に自由な空間が広がっているように見えます。

 フォークミュージックが流行っていた50年前に「翼をください」という歌がヒットして、現代まで歌い継がれ、多くのミュージシャンがカヴァーしてきました。それは、いつの時代もこの歌が多くの人の心につき刺さるからではないでしょうか。

 「この大空に翼を広げ、飛んで行きたいよ。悲しみのない自由な空に、翼はためかせ行きたい」、これが、「翼をください」でリフレインされているフレーズで、地上から天を見上げた時の人々の素直な思いなのではないでしょうか。しかし、たとえ翼が与えられ、鳥のように空を飛べるようになっても、状況はあまり変わらないのではないでしょうか。ただ少しだけ地上から離れていて、そこから同じように果てしない空を見上げる。実は、翼をもらっても「翼をください」、という願いは叶わないのです。

この状況を打ち破る唯一のものが信仰なのです。この歌詞の「翼をください」が、「信仰をください」に変えられた時、初めて翼をはためかせることができるのです。初めて自由な大空を飛ぶことができるのです。そして、これを伝えるのが福音宣教ではないでしょうか。疲弊し、悲しみ、うつむいたこの世に、自由な翼が信仰であることを宣教するのが私たちの務めです。

 その上で主イエスは非常に大切なことを言われます。「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる(24節)」、これです。この「わたしはある」、これは先週も確認しましたように聖書的に非常に重要で、これ以上ない威厳を持った言葉です。「わたしはある」、と訳されるギリシア語のἘγώ εἰμι (エゴー・エイミー)、これはそのまま生ける真の神の称号であるからです(出エジプト3:14参照)。ですからこれは、「主イエスこそが生ける真の神である、ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」、という意味なのです。つまり、主イエスを信じるか、信じないか、これが、人間が生きるか死ぬか、このいずれかを決めることである、ということなのです。逆に言えば、イエスこそが生ける真の神である、ということを信じれば、罪のうちに死ぬことはない、ということにもなるのです。そしてこれこそがキリスト教そのものです。キリスト教は、イエスが主であり、「わたしはある」、これが主イエスである、という信仰の上に立っているからなのです。私たちが死から命へと移されている根拠もここにございます。「わたしはある」、ここにこそ命があるからです。実に、「わたしはある」、これこそが私たちの信仰という翼そのものです。

 しかし、それでもなお、その私たちが、しばしば「翼をください」、「信仰をください」、と空を眺めてしまうのはどうしてでしょうか。それを説明するために、よく信仰が強いとか弱いとか、そのような言い方がなされます。しかし、この信仰の強弱の議論はあまり意味がないと思います。からし種一粒ほどの信仰があれば山が動く(マタイ17:20参照)、と主イエスが言われましたように、どんなちっぽけな信仰であっても絶大な力を持つからです。

 では、どうして「翼をください」、とその信仰を疑うことを私たちは繰り返してしまうのか。それは、信仰が現実ではなくて、思想の領域へと、つまりこの世的に見積もられているからです。本来信仰というのは、この世のものではありません。私たちの思想や意志、あるいは決意のようなものとも全く違いまして、それは神の力が私たちの身体で躍動している証拠であります。ですから、本来信仰は、私たちの意志や決意さえも従わせてしまう圧倒的な力なのです。私たちの信仰の翼は、主なる神が与えてくださったものであり、そうである以上、その翼が折れることはないのです。しかし、それでもなお、この世の思い煩いや誘惑、あるいは富や名声、という地上的な引力に引きずられてもがいている、低空飛行を続けている、これが偽りない私たちの姿なのです。

 ではどうすれば良いのか。私がこの地に遣わされた当時一度だけお話しした短いエピソードがございます。それは、日本キリスト改革派教会の創立のために用いられた岡田稔先生の著書から紹介したものです。岡田稔先生が若い日に読んだ「神の人タウレル」という本の中で、生涯思い出さない日がないくらいに心に刻まれた話があったそうなのです。

 タウレル、というのはあの宗教改革者マルティンルターや音楽の父と呼ばれたバッハにも多大な影響を与えたと言われるドイツの神学者であり説教者でもあった人物です。ヨハン・タウラーという名で紹介されていることが多いと思います。

 そのタウレル先生が、ある日思索に悩みながらライン川沿いの道を歩いていると、あちらから見るからに無学なお百姓さんが、とても嬉しそうな顔をして歩いてきた、ということなのです。それが気になったのか、気に食わなかったのか、タウレルはすれ違いざまそのお百姓さんに、「おい、お前はどうしてそんなに嬉しいのだ」、と尋ねました。するとそのお百姓さんはこのように問い返したと言います。「先生様は、イエス様がおられるのに嬉しくないのですか。」このお百姓さんの一言が、ヨハン・タウラーのその後の歩みを大きく変えたという話です。

 生涯思い出さない日がなかったと言われる岡田稔先生が、どちらの立場でこれを読んだかは言うまでもないでしょう。そして、これが信仰ではないでしょうか。この信仰が現実である時、どんな状況であっても、私たちは翼を持ってキリスト者の自由を謳歌しているはずです。

主イエス様は「わたしはある」、と言われる。そうである以上、主イエスは、目には見えないだけで常にここにいらっしゃるのです。それなのにどうして浮かない顔をして歩むことが出来ましょう。「先生様は、イエス様がおられるのに嬉しくないのですか。」私たちはこれを自問自答したいのです。これが主イエス様の「わたしはある」、この宣言に対する私たちの立場だからです。

真の翼さえも知らないで「翼をください」と空を見上げるこの世の中に、真の翼を伝えようではありませんか。まず私たちが喜ぼうではありませんか。「わたしはある」、主イエスがおられる、これが現実であることを喜び祝おうではありませんか。これからは、「おい、お前はどうしてそんなに嬉しいのだ」、と私たちがそう言われたいと願うのです。実にそこから伝道は始まります。