2024年02月04日「主御自身が建ててくださる(後)」

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主御自身が建ててくださる(後)

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
詩編 127編1節~5節

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1節 主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。
2節 朝早く起き、夜おそく休み焦慮してパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか。主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
3節 見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。
4節 若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。
5節 いかに幸いなことか、矢筒をこの矢で満たす人は。町の門で敵と論争するときも恥をこうむることはない。
詩編 127編1節~5節

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説教の要点「主御自身が建ててくださる(後)」詩編127編1節~5節

先週から、本年度の年間聖句であります詩編127編の御言葉から教えられていまして、前回は、特に年間聖句であります「主御自身が建ててくださる」、という信仰を最初の段落であります2節までの御言葉によって教えられました。本日は、3節以下の御言葉を含めて、再度この詩編全体から学びたいと思います。

まず、御言葉は「見よ(3節)」、と言います。これは、聖書で非常に大切な真理や約束が示される時に使われる定型句で、暗闇に突然光が差し込んで視界が開かれる、そう言う迫力を持った言葉です。1節、2節では、御言葉の知恵が与えられ、それに基づいて、今視界が祝福へと開かれるわけです。さらに申し上げれば、「見よ」、この御言葉が示された時、それに対する私たちの態度が問われています。それは、「信仰の目を開け」、と言うこと、そして「主を畏れよ」、と言うことではないでしょうか。この世の思い煩いに、いつの間にか信仰の目が塞がれているのが私たちの現実です。その目を開け、世を恐れるのではなく、神を畏れよ、これが「見よ」、この御言葉によって命じられているのです。「見よ」、この御言葉の前に、私たちは、「主御自身が建ててくださる」、この約束を展望するのです。

そして、その報酬が、「子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。」と謳われています。聖書の時代、特に旧約時代は、信仰者に与えられる神の祝福は、約束の土地と子孫、この二つでありました。そして、これらは、信仰の父と謳われたアブラハムに約束された祝福の全てでした(創世記17:7、8参照)。ですから、エルサレムに帰還したイスラエルの民は、まず約束の土地という祝福を取り戻すことが許された、と言う立場にあったわけです。そこにさらなる祝福として子孫が約束されれば、アブラハム以来、彼らの拠り所であった神の契約は満たされるわけです。ですから、「子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。」、これは「主御自身が建ててくださる」、と言う信仰に立つ者には、神が契約に基づいてこれ以上ない満額の報酬を与えてくださる、そう言う約束になっているのです。

 そして、この「子ら」が満たされることが、「いかに幸いなことか(5節)」と称賛されます。実は、詩編はこの言葉から始まります。「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。(詩編1:1)」、すなわち、「いかに幸いなことか」、これが詩編全体の祝福の根底にある言葉なのです。

 ここで、「神に逆らう者」、「罪ある者」、あるいは「傲慢な者」と呼ばれているのは、決して人を殺めたり、物を盗んだり、といった犯罪者ではございません。これらは、この世を愛し、神を無視する者です。そして私たちは、そのような社会に遣わされています。しかも圧倒的マイノリティと言う立場で生かされています。そうである以上、必ず信仰の戦いがございます。つまり、ここで「いかに幸いなことか」、とその姿が謳われている人は、信仰の戦いを続ける人に他ならないのです。

 ですから、本日の御言葉で、「いかに幸いなことか、矢筒をこの矢で満たす人は」、と謳われる者、これはこの世にあって信仰の戦いを続けるキリスト者であり、そこにこそ、「矢筒をこの矢で満たす」、と言うこの信仰の継承は約束されるのです。 

しかし、現実は、そんなに甘くありません。休みも取らずに一日中働いて、備えの日であるはずの土曜日も夜遅くまで仕事が終わらない、そのような方もいらっしゃるのではないのでしょうか。その上、主の日の翌日からは同じ激務が待っているわけです。私たちの肉体は弱いです。大切な主の日にため息が出てしまったり、あるいは涙が止まらない、そのような時もありましょう。疲れた体は器用にコントロールなどできませんから。しかし、そこで信仰の継承はなされていくのではないでしょうか。くたくたであろうが、へとへとであろうが、必ず教会に行って主なる神様に仕える、奉仕に勤しむ、この姿に偽りがなければ、子どもたちには必ず伝わります。逆に、大人の偽善は子どもたちには必ず見破られます。かっこが悪くてもいいのです。クールな信仰者を聖書のどこで求めていますでしょうか。いいえ、聖書はそんなものには興味も示しません。大切なのは、その信仰が本物であるのかないのか、それだけです。「いかに幸いなことか、矢筒をこの矢で満たす人は」、と謳われる信仰者は、信仰に欺きのないキリスト者以外ではないのです。

二週にわたって、詩編127編から、御言葉に教えられてまいりました。最後になりますが、実は、他ならぬ主イエスが、「主御自身が建ててくださる」、この詩編の生き方をそのまま福音として語っておられます。

 「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。(ルカ12:29〜33))」、これが、詩編127編の信仰を具体的に説明した御言葉と申し上げてよろしいでしょう。

 「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」、それは、私たちがまどろんでいる時も、倒れている時も、主なる神のお働きは続いていてその必要を満たしてくださるからです。「主御自身が建ててくださる」この信仰は、ただ、神の国を求めることにほかなりません。マタイ福音書の並行箇所では、「神の国と神の義を求めなさい。(マタイ6:33)」と記されています。

そして、その時、とんでもないことが約束されているのです。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」、これです。これがいかに偉大な約束であるか思い巡らしたいのです。

 私たちは、今この地に新しい会堂を建てる備えを始めています。しかし、天の父は、それ以上のものを約束してくださる。「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」、と御言葉が言います時、形ある会堂は、その一部に過ぎないのではありませんか。

私たちは小さな群れであり、恐れています。しかし、「小さな群れよ、恐れるな」、とここではっきり言われているではありませんか。聖書には、大きな教会に対する配慮はございません。神の民は、いつの時代も小さな群れがノーマルだからです。「小さな群れよ、恐れるな」、今、新会堂建築を始める私たちの中で、これ以上に響く御言葉がありましょうか。だからこそ、「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」、この主イエスの鋭い言葉に悔い改めねばなりません。そして、ここにこそ信仰の戦いがあるのではないでしょうか。「主御自身が建ててくださる」この御言葉に立って、最後までこの信仰の戦いを続けようではありませんか。