2024年01月20日「主イエスによる対立」

問い合わせ

日本キリスト改革派 高島平キリスト教会のホームページへ戻る

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

40節 この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、
41節 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。
42節 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」
43節 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。
44節 その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。
45節 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。
46節 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。
47節 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。
48節 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。
49節 だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」
50節 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。
51節 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」
52節 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」
ヨハネによる福音書 7章40節~52節

原稿のアイコンメッセージ

「主イエスによる対立」ヨハネによる福音書7章40節~52節

本日の聖書箇所は、群衆の中で(40〜44節)、そして、ユダヤ当局の中で(45〜52節)、それぞれ、主イエスによって対立が起こっている、その様子が描かれています。

主イエスをお縄にするために遣わされたのにもかかわらず(32節)、おめおめと手ぶらで戻ってきた下役たちは、祭司長たちやファリサイ派の人々に、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と激高されて、「今まで、あの人のように話した人はいません(46節)」と答えました。下役たちは、イエスに論破されたわけではありませんし、そもそも主イエスは論破などしていません。むしろ、彼らを招いたのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい(37節)」、この主イエスの叫び声は、この下役たちの耳にも届き、彼らもその「だれでも」の中に招かれていたのです。

この主イエスを目撃した下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」、と報告する以外はなかった。つまり、今この下役たちは、心砕かれ、その心が主イエスに向かっているのです。「今まで、あの人のように話した人はいません」、この彼らの返答は、そのままイエスは誰か、その主イエスに対する問いかけと求道の裏返しです。ミイラ取りがミイラになって帰ってきたわけです。

そこで、ファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるどころか、イエスの信奉者のようになって戻ってきた彼らに「お前たちまでも惑わされたのか」、とさらに叱り飛ばしたうえで、「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」、とこのように、自らのディフェンスを固めようとします。これは、次の「だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている」この部分と対照的に語られています。律法をよく知っている私たち議員やファリサイ派の中には、ナザレのイエスを信じるような愚か者は、一人もいない。しかし、下役たちを含めた群衆どもは、律法を知らないから、ナザレのイエスなどに惑わされているのだ。これは、そういう理屈です。

この「呪われている」という字は、断罪を示す非常に強い言葉です。ファリサイ派の人々は、いやしくも、神の民の指導者的な立場でした。しかし、その彼らが、彼らに委ねられている神の民を今、断罪し、排除している。その理由は、「律法を知らない」、これです。律法を知らない愚か者には用はない、これが、ファリサイ派の人々の立場でした。主イエスとなんと違うことでありましょうか。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」、これが主イエスでした。主イエスは、むしろ、律法を知らない愚か者を招いているのです。ここでは、主イエスと対照的に描かれることによって、ファリサイ派の人々の化けの皮が剥がされているわけです(エゼキエル34章参照)。

 加えまして、この「呪われている」という字は、新約聖書全体でも、ここを含めて3回しか使われていません。あと2回の使用例は、いずれもガラテヤ書にありまして、パウロが使っています。「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。(ガラテヤ3:10)」、ファリサイ派の人々は、「律法を知らないこの群衆は、呪われている」、と断罪しました。しかし、聖書的には、むしろ逆なのです。「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われている」、と呪われているのは、群衆ではなくて、ファリサイ派の人々なのです。彼らは、「律法を知らないこの群衆は、呪われている」、と言って自らを断罪していたのです。しかし、そんな彼らの姿はまだ茶番に過ぎません。さらにパウロは言います。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。(3:13)」、この通りです。他でもない御子キリストが、呪いとなってくださった。結局この「呪われている」という字はキリストの十字架を用意するために機能していたのです。主イエスが、群衆であろうが、ファリサイ派の人々であろうが、すべての罪人の呪いを担う十字架の主であるからなのです。

 さて、ここで、ニコデモが立ち上がります(50節)。彼は、過去闇に紛れて、主イエスに会いに来た老人です(3章)。自分がファリサイ派であるので、世間体もあり、白昼堂々と主イエスのところへは、行けなかったからです。そのニコデモが語ります「「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。(51節 )」、ここで、ニコデモは、申命記にある裁判の規定を紐解いて、自らの意見の根拠にしています(申命記1:16、17参照)。「律法を知らないこの群衆は、呪われている」、と言い放った彼らに、ニコデモは、律法を知らないのは、むしろ我々の方ではあるまいか、と問い返しているのです。皮肉にも聞こえる大変厳しい意見です。ここでは、ファリサイ派の本体が、主イエスによって対立しているのです。彼らは、下っ端を切り離し、自分たちのディフェンスを固めました。しかし、その途端に、そのディフェンスの内側から対立が起こった、ということなのです。いくら身内を固めても、そこに分裂が起こる、これがイエスによる対立なのです(ルカ12:51〜53参照)。

ここで他のファリサイ派の人々は、「あなたもガリラヤ出身なのか(52節)」、とニコデモに言います。これは、言い換えますと「あなたもイエスの仲間か」ということです。つまり、ここでニコデモは侮辱され、下役や群衆たちと同じように、呪われた者、律法を知らない者程度に処理されているわけです。

しかし、ニコデモにとって、これは想定内であったのではないでしょうか。ファリサイ派が集結して議論しているそのど真ん中に立って異論を述べた。しかも、それは、ナザレのイエスを弁護するものであった。ただで済まされるはずはございません。闇に紛れて主イエスの許に学びにいった彼は、その時はさっぱり理解できませんでした。しかし、その時聞いた主イエスの言葉が、ニコデモの中で芽を出して、少しずつ成長をしていたわけです。ニコデモも主イエスに論破されたのではありません。彼はイエスの許で初めて真理を聞いたのです。「下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた(46節)」、ニコデモは、この彼らにただならぬシンパシーを感じていたのではないでしょうか。このヨハネ福音書の頂点、いいえ、聖書全体の福音の頂点である、神の愛を聞いてしまったのが、この老人だからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)」、ニコデモは、その耳で、直接この福音を聞いたのです。イエスによる対立、それは、私たち信仰者にとっては、勇気のいることでもありましょう。この世的な立場や人間関係さえ危うくなることもありましょう。それが、ファリサイ派の中で立ち上がって一人でナザレのイエスを弁護したニコデモの姿で示されています。

 本日の御言葉には主イエスは登場してきません。イエスが見えない中での人々様子がそのまま描かれています。これはまるで今の時代です。私たちは、主イエスが目には見えないこの世にあって、主イエスを証するために用いられています。そうである以上、主イエスによる対立は、必ず起こります。しかし、私たちは、相手を論破するために遣わされているのではありません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」この真理を証言するために私たちは遣わされています。

 私たちが、信仰に立って、この神の愛を証言する時にだけ、聖霊と御言葉の力によって、「今まで、あの人のように話した人はいません」、この事態が起こりうるのではないでしょうか。