2023年12月17日「アドベントの希望」

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アドベントの希望

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 21章1節~4節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
2節 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
3節 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
4節 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。
ヨハネの黙示録 21章1節~4節

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説教の要約

「アドベントの希望」ヨハネ黙示録21:1~4

今年のアドベントは、ヨハネの黙示録を3回に分けて学ぶことにいたしました。今日はその最終回で、ヨハネ黙示録のエピローグ部分から、引き続き再臨の主イエスを待ち望む私たちのアドベントの信仰を養われたいと願っています。

 ここでは、「新しい天と新しい地(1節)」が現れ、次いで「聖なる都、新しいエルサレム(2節)」が天から下ってきます。この「聖なる都、新しいエルサレム」は、「夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて」とありまして、これは聖書的にキリストの花嫁を指す「教会」に他なりません。この世が終わるまで、肉眼では見えなかった「天上の教会」がいよいよこの終わりの時にその姿を現すわけです。しかし、ここで言います教会というのは、建物ではなく、あくまでも信徒の交わりです。ですから、「聖なる都、新しいエルサレム」、これは、天上にあります信徒の交わりで、そこには、すでに地上の生涯を終え、私たちのもとを去っていった信仰者たちの共同体があるわけです。これが大切です。

それは、「最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった(1節)」わけですから、そこはまっさらな状態であるにも関わらず、天から降ってきたのは「新しいエデンの園」ではなくて、「聖なる都、新しいエルサレム」だからです。ここで、二つのことが確認できます。

一つは、聖書において神の国は、「都」である、ということです。そもそも、このヨハネの黙示録の宛先となった7つの教会は、そのすべてが当時の大都市に建てられたキリストの教会です(2〜3章)。すなわち、キリスト教は、その初めから都市の宗教であったのです。「都市」というのは、人間の共同体を現実に現すものであり、その対極に「ユートピア思想」があります。人間関係の煩わしさを回避して、郊外に逃れ、のんびりと自然を謳歌しながら生活する「理想郷」。しかし、このユートピア思想は、聖書が示す神の国とは全く違います。神の国は、隠遁生活ではなく、共同生活になって実現するのです。教会は、この世の只中で、多くの人が行き来する街で、福音宣教をするために建てられたからです。それは、暗闇に光を輝かせるかのように。ですから、その中で実現している私たちの教会の信徒の交わりは、多くの欠けを持ちながら、やがて来たる神の国の姿をこの世に知らしめるためにも機能しているのです。

二つ目は、私たちのこの地上での歩みの延長上に、神の国は実現するということです。

主なる神様は世の終わりに全てをリセットされます。「新しい天と新しい地」が現れるわけですから、これは、無からの創造であり、新しい天地万物の創造です。しかし、それは、私たち人類の歴史を無意味にされるのではない、ということです。「新しいエルサレム」、と言われるわけですから、そのモデルは、人間の歴史の中でこの世に存在した「古いエルサレム」です。そこは、ダビデの立てた都であり、ソロモンが神殿を築くも、バビロンに破壊され、そして、再度神殿を建て直した、という泥臭い人間の歴史が横たわっています。それは、神から祝福されながら、その主なる神を裏切り、堕落し、罪と汚れにまみれ、偶像崇拝の都へと転落した都エルサレムです。しかし、神様はその私たち人類の罪にまみれた歴史を無意味にされるのではなく、むしろ、それを清められ、完全にされるのです。そうである以上、私たち一人一人が生きてきたこの取るに足らない生涯も無意味ではないのです。

私たちはそれぞれ、不完全であり、多くの罪を持ちながら、それでも主なる神に与えられた賜物によって生涯神と教会に仕えてまいります。賛美する者、奏楽者、献げる者、管理する者、御言葉の奉仕者、その役割は違います。そして、それらは、全く無駄にはならず、この地上との連続性の中で、天の国で用いられるのです。「新しいエルサレム」は、この地上での私たちの小さな働きが報われ、完全にされる神の都なのです。

さて、その上で、私たちに対する最終的な慰めが語られます。

 「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。(4節)」、聖書全体を通読していても、これほど慰めに満ち溢れた御言葉は、そうはございません。しかし、どうして、この御言葉が大きな慰めとなって、私たちの胸に響くのでしょうか。それは、私たちは、涙を流すからです。その涙を自分でぬぐうからです。私たちは、死に怯え、悲しみ、嘆き、日々の労働に疲れ果てているからです。このヨハネの黙示録で、あるいは聖書全体で、明確にされているのは、私たち信仰者であってもこれらの苦しみや恐れから免れられない、ということです。

 やがて、必ず、主なる神は、私たちの「涙をことごとくぬぐい取ってくださる」、しかし、私たちはそれまでは、涙を流さずには生きていけないのです。私たちは、涙を流し、死に怯え、悲しみ嘆き、労苦に疲れる者であります。しかし、それが、アドベントの希望を抱く私たちの姿なのです。私たちが、そのように弱く惨めな者であることは、むしろ喜ぶべき状態なのです。

また、既に地上の生涯を終え、私たちのもとから天に召された大切な者たちに「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」、この約束が既に実現している、これは、今まだこの世の歩みを続ける私たちにとって、これ以上ない慰めです。

今年のアドベント期間に、このヨハネの黙示録の御言葉から教えられたい、その一つの理由は、「私たちにとって、天の国が近いものである、と特に今年は実感させられたからです」、と初回に申しあげました。それは、今年も私たちの群れから、大切な兄弟姉妹が天に召され、この愛する者の召天によって、私たちにとっても、ますます天の国が近づいてきたからです。

私たちは、大切な肉親の死を前に、もっと美味いもの食わせてやりたかったとか、もっと遠くに連れて行ってやりたかったとか、地上的な幸福に目を向けて悲しくなります。信仰者であっても、美味しいものを喜び、余暇や旅を楽しむからです。しかし、今天で新しく生活を始めた彼らは、この「もっと〜」からも解放されているのです。これが大切です。彼らは、今やmoreではなくて最高の状態、のmostにあるのです。私たちは、いくら頑張ってもやはりmoreが精一杯です。どんなに頑張っても誰の涙を拭い去ることもできなければ、死からも、悲しみからも、嘆きからも、労苦からも、誰一人として解放してあげることなどできない。ところが、先に天に召された兄弟姉妹のその生活の中でそれが実現している、私たちが一生かけてもできなかったことを主なる神は一瞬にして実現してくださった。その生活の様子が、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」、とここで具体的に示されています。この現実的な描写が私たちに天の国の近さを示しているのです。そして、それが、来るべき「聖なる都、新しいエルサレム」なのです。そこは、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」、この既に召された私たちの愛する者たちの交わりの場所です。そして、それが、今や、「神のもとを離れ、天から下って来る」その時なのです。 この天国の近さと確実さに、私たちのアドベントの希望は保証されているのです。