2023年12月10日「湧き起こる賛美」

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湧き起こる賛美

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 1章1節~8節

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1節 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。
2節 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。
3節 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。
4~5節 ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、
6節 わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。
7節 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。
8節 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
ヨハネの黙示録 1章1節~8節

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説教の要約

「湧き起こる賛美」ヨハネ黙示録1:1~8

本日は、ヨハネ黙示録プロローグ部分の続きであります4節以下の御言葉から教えられたいと思います。ここでは、「アジア州にある七つの教会(4節)」、が、このヨハネ黙示録の宛先とされています。注目したいのは、このヨハネ黙示録におきまして、教会が極めて強調されている、ということです。黙示録は、教会に宛てられた書簡である、この事実はとても重要です。この世の中にあって苦難に立たされている教会を励ます目的で書かれた書簡、それが、このヨハネの黙示録なのです。

しかし、それにもかかわらず、この世が悪くて自分たちが正しい、という立場ではないのです。これも主の再臨を待ち望むアドベントの教会の大切な姿であります。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方(5節)」、これは、逆に言えば、私たちが、主イエスを十字架につけた、その血によって私たちは罪から解放された、ということです。この世だけが悪いのではないのです。むしろ、教会は、罪人の頭の集まりであり、ただ主イエスの十字架によって罪赦された、その違いだけなのです。それ以外には、何一つこの世の人以上に優れた点など見つからないのです。

 少し前に、若い人たちのキャンプであったでしょうか。「俺たちいいやつ集団」的なキャッチフレーズを見た憶えがあります。おそらく、この国にあって少数派であるキリスト者の若者を励ますような意図があったのでしょう。しかし、これほどアドベントにある教会の福音宣教と真逆の姿勢はありません。「いいやつ集団」で固まって、この世と区別してはならないのです。それは、現代のファリサイ主義です。むしろ、「いいやつ」を探すのなら、教会よりもこの世のほうに山ほどいらっしゃる。私のような自分勝手で、わがままで、嫌な奴が救われた、主イエスは、そんなわたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方である、これを証言するのが私たちの務めなのです。「俺たちいいやつ集団」の中には十字架はありません。

その上で、この賛美の中で、ついに再臨の主イエスが謳われます。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。(7節)」 この一つの節で、最初期の教会にとって、主イエスの再臨というのは、非常に具体性を持って理解されていたことがよくわかります。ただ呆然とこの世が終わる(この世の理解)のではなくて、主イエスがその中心におられて、この世を正しく裁くのです。

大切なのは、これが十字架で死なれる直前に言われた主イエスご自身の言葉に遡る、ということです(マタイ24:30、31参照)。主イエスが復活されたから、主イエスの終末を予告した説教が、そのまま教会の真理になって、具体的な終わりの日が、まるで目で見えるかのように、生き生きと教会全体で共有されたのです。この目に見えるような生き生きとした信仰、これが最初期の教会の特徴であります。情報が氾濫している私たちの時代、他のものが目に映りすぎて、信仰の目が塞がれているように思うのです。私たちは、神の言葉に立って、もっと生き生きと信仰の目を開くべきです。この世の只中にあって、神の国が実現していくイメージを希望と共に膨らませて信仰の歩みを続けたいと願うのです。

先週は、「わたしはアルファであり、オメガである。(8節)」、これがインマヌエルにその姿を変えたのがクリスマスの福音であることを確認しました。 この節でさらに大切なのは、その前に謳われる「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方」、この部分で、これは、聖書で最も威厳を持った神の名である、あの「Ἐγώ εἰμι私はある」の完成形と申し上げてよろしいでしょう。そもそも、主なる神様が、最初にご自身の名を「私はある」と具体的に示されたのは、モーセに対してでした(出エジプト3:14)。そして、聖書の最後の書であるヨハネの黙示録で、その「私はある」の完成形、最終形態とも言えます「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」、という神の御名が示されるのです。すなわち、その間にあるこの分厚い聖書の底流に常にそれが流れていて、「私はある」、この神の御名が聖書全体に響いているわけです。つまり、この「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」、ここには一切切れ目がなく、初めから終わりまで、常におられる主なる神様の姿が描かれているのです。しかし、これは、旧約からこの最初期の教会の時代まで、信仰者がずっと理解してきたことではないでしょうか。どうして、改めて「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」この神の御名が確認されなければならないのでしょうか。それは、いつの時代も神は目に見えないからです。短い時間この地上でその姿を現された主イエスも今や天におられてその姿は見えません。つまり、神は沈黙している、信仰者であっても肉体の目に映る現実は、常に、この神の沈黙なのです。

 今、これだけ悲惨な状況が世界中で起こっているのに、神は沈黙している、とこの世の人たちは、これから後ますます「神などいるものか」と叫ぶでしょう。しかし、信仰の目に対して私たちに神は沈黙していない。今聖書の言葉によって、その存在を示されます。それが、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」この神の御名なのです。そして、そこから湧き上がるのが、賛美ではないでしょうか。この世が、神などいないとうつむく時、私どもは、天を仰いで神を賛美するのです。神賛美は、神がおられることをこの世に知らしめる信仰告白に他なりません。「わたしはある〜今おられ、かつておられ、やがて来られる方」、この神の御名に対する信仰者の回答として、今神賛美は湧き起こるのです。実は、このヨハネの黙示録は、神賛美の書と申し上げてもよろしいくらい、神賛美に満ち溢れているのです。私たちが礼拝の最後に歌う頌栄は、ヨハネ黙示録からの引用がとても多くなります。頌栄の本来の意味は、神に栄光をお返しするということです。最初期の困難にさらされた教会は、その状況で何よりも神を賛美し、ただ神に栄光をお返しし続けたのです。これが、主の再臨を待ち望む私たちの姿ではないでしょうか。この世の困難にさらされながら、この世と嘆きを共にしながら、そこから湧き上がる賛美。私たちは沈黙してはならない、本日の招きの詞の詩編でも謳われていますように、「主を賛美するために民は創造された(詩編102:19)」からです。

 信仰に入るきっかけになったのが、教会から響いている讃美歌であった、という信徒の証はとても多いと思います。夏が終わった日に天に召された姉妹は、少女であった時に母親を失った日、たまたま耳に入ってきた聖歌隊の「主、われを愛す」、あの讃美歌が信仰の契機であったようです。20世紀指折りの神学者であるカールバルトは、学生に、「神学を一言で要約するとどのようになりますか」、と問われて、「主、われを愛す」を歌ったようです。信仰によって歌われる讃美歌は、すんなりと心の中に入ってきて、そこに今までになかった心地よさを与えるように思うのです。聖書の最後の書であり、困難の時代に執筆されたこのヨハネの黙示録が神賛美に満ち溢れているのは、終わりの時代の福音宣教に賛美が用いられることを証言しています。主イエスの再臨を待つこのアドベント、そしてクリスマス礼拝、この私たちの教会から湧き起こる神賛美、目に見えない神を信仰の目で見る、この私たちの賛美を響かせようではありませんか。今ほど賛美がこの世の暗闇に響く時はありません。