2023年04月09日「イエスキリスト復活の序章」

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イエスキリスト復活の序章

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ルカによる福音書 23章56節b~24章12節

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23章56b節 婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。
24章1節 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
2節 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
3節 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
4節 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
5節 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか
6節 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
7節 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか
8節 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
9節 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた
10節 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
11節 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
12節 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
ルカによる福音書 23章56節b~24章12節

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説教の要約

「イエスキリスト復活の序章」ルカ23:56b~24:12

ルカによる福音書では、最後の24章全体を使って、実に詳しく主イエスキリストの復活を記録しています。本日私たちに与えられた聖書個所は、そのイエスキリスト復活のプロローグ、と申し上げてよろしいでしょう。この御言葉は、①主に女性信徒の働きが注目されている。②ギリシア語聖書の本文では二つの段落に分かれていて、8節と9節の間で大きなシフトチェンジが行われている、という二つの大きな構造的特徴がありまして、これらがとても大切です。

まず「婦人たちは、準備しておいた香料を持って墓に行った(1節)」、ここから、この記録は始まります。しかし、そもそもこれが大きな間違えでした。この女性たちは、イエスが死んでいることを前提にその遺体に香料を塗るために墓まで赴いたからです。ですから、その過ちが天使と思われる「輝く衣を着た二人の人」に指摘されます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか(5節)」と。さらに天使たちは続けます。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。(6節)」、そして、その主イエスが、ガリラヤでお話になったことが「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか(7節)」これです(9:21、22参照)。ここで、天使たちが、「思い出しなさい」、と勧告し、「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した(8節)」、と「思いだす」という字が繰り返されることが重要です。これが本日の御言葉の中心と申し上げても過言ではありません。実は、これは、このルカ福音書全体のプロローグともいえますおとめマリアの賛歌のクライマックスに出てくる言葉なのです。「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。(2:54)」、この「憐れみをお忘れになりません」の「忘れない」、という字が実は、本日の箇所では「思いだす」、と訳されている言葉です。もともとのギリシア語聖書の本文でここは、「憐れみを思いだされる」、と記されていて、救い主誕生の告知を受けたおとめマリアは、ここで主なる神様が、今憐れみを思いだされた、と謳うのです。つまり、主なる神が、その憐れみを思いだされる、というのはそこで神の御業が実現した、と同じ意味なのです。さらにこの字は、先週の十字架の光景のクライマックスでも、十字架上で悔い改めた犯罪人が「わたしを思い出してください((23:42))」と主イエスに願った、この「思いだす」、という字です。すると主イエスは回答されました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる(23:43)」、ここで、この犯罪人は、「今日わたしと一緒に楽園にいる」、とたちまち救いを宣言されました。つまり、ここでも「思いだす」という言葉が、神の御業の実現に直結しているのです。ですから、「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」、とここで、婦人たちがイエスの言葉を思い出した時、主イエスの復活の実現が罪人の目の前で実現した、その宣言になっているのです。思いだす=神の御業の成就、それがこのルカ福音書の非常に大切なところで繰り返し描写されているわけです。勿論、主イエスの復活はすでに起こっていました。しかし、その前代未聞の死者の復活という出来事に今初めて罪人の目が開かれた、という記録がこの節の御言葉であり、この理解が極めて大切です。最初に、この個所は、ギリシア語聖書の本文では二つの段落に分かれていて、8節と9節の間でシフトチェンジが行われている、と申し上げました。実に、この8節と9節の行間で、初めて人類が、死者の復活という全く新しい時代に突入したのです。

この行間に、「ハレルヤ、主はよみがえり給う」とメモ書きを加えてもよいのではないでしょうか。

ですから、ここから新しい時代、復活者の福音が語られる時代へと御言葉もシフトチェンジいたします。「そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。(9節)」、と婦人たちは間髪入れずに、主イエスの復活を潜伏していた弟子たちに報告しました。しかし、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われた(11節)」、これが主イエスの弟子たちの姿でした。彼らも、「まだガリラヤにおられたころ」、主イエスが、「お話しになったこと」を聞いていました。しかし、彼らは、思い出さなかったのです。ここでは、弟子たちがあえて、使徒たち、と言い換えられています。その上で、聖書は、主イエスの復活という決定的な出来事に対して、いやしくも使徒たちと呼ばれた男たちが不信仰から始めたことを隠さないのです。

しかし、その使徒たちの中で一人だけ、アクションを起こした男がいました。それは、3日前に主イエスを3度知らないと言ってしまったペトロでした。このペトロが、墓が空であったことを確かに確認していますが(12節)、「この出来事に驚きながら家に帰った」、と記録されていますように、ペトロは、家に帰っただけでありました。しかし、婦人たちは、「墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」のであります。このコントラストが非常に重要です。死者の復活という新しい時代に突入した瞬間に、婦人たちは黙っていなかった。この一部始終を知らせた、とあります知らせた、という字は、福音宣教における信仰告白を意味する言葉です。イエスキリストの復活は、瞬時に婦人たちの信仰告白となって公的に宣言されたのです。

イエスキリストの復活は、疑う余地のない議論で証明されることも可能であります。例えばこの時、死を恐れて潜伏していた極めて復活に対して不信仰であった臆病な使徒たちが、すぐに殉教を怖れずイエスキリストの復活を宣教した、これも主イエスキリストの復活が事実であったことにただならぬ説得力を与えます。そもそも、空の墓もイエスキリストの復活なしには説明できません。しかし、イエスキリストの復活は、たとえそれが疑う余地のない説明であっても、そのようなものによって最終的に可決される出来事ではないのです。最初にキリストの復活を告白したこの婦人たちのように、イエスキリストの復活は、信仰が与えられて信仰の証言によって初めて宣教される出来事なのです。

 このイエスキリスト復活のプロローグは、イエスキリストの復活は、信仰の証言によって伝道されるもので、これが今日にいたるまでの福音宣教の原型であることを鮮やかに示しているのです(Ⅰコリ15:3、4参照)。毎週主の日ごとに、この復活信仰が宣言される場所が教会であり、つまり私たちは、その復活の主に見えるために毎週主の日礼拝に招かれているのです。実に、毎週がイースターであり、私たちがこのように、この場所に集うことで復活の主を証言するために用いられているのです。

 私たちの群れから、もう幾人もこの地上での歩みを終え、天に召されていきました。しかし、このイースターの福音が躍動する教会という場所で、それは決定的なことではありません。大切なのは、その死の現実をこの目で目撃するのと全く同じ確信をもって、復活の命を確信することではありませんか。死はこの目で見れば分かります。手で触ればさらによくわかります。確かに死んでいる、と。疑いたくても疑えないのが死という現実であります。

 では、私たちは復活もまたそのように確信していますでしょうか。このイースター礼拝で最も大切なのは、信仰の目を開いて復活の希望を喜ぶことであります。キリストは死に打ち勝たれ、復活された。私たちにもこの復活の命が約束されているのです。

「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。(Ⅰコリ15:55)」私たちが死に向かう時、愛する人の死に直面した時、この勝利の歌を響かせようではありませんか。