2020年07月12日「勇気を出せ」

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勇気を出せ

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
使徒言行録 22章30節~23章11節

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翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した。そして、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしる気か」と言った。パウロは言った。「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」
使徒言行録 22章30節~23章11節

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説教の要約「勇気を出せ」使徒言行録22:30~23:11

本日の御言葉は、パウロの弁明の途中で怒り狂ったユダヤ人によって遮られ、その後千人隊長によってパウロがユダヤ人から保護された翌日の最高法院が舞台になって描かれていきます。

証言の途中で「パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。(6節)」このようにパウロが言ったことから、議場が混乱しました。しかし、このパウロの発言をどう説明すればよいのでしょうか。

「わたしは生まれながらのファリサイ派です」、その場合、今議場に立っているパウロは、依然としてファリサイ派である、ということだからです。パウロは、ダマスコ途上で回心し、ファリサイ派からキリスト者に生まれ変わったはずです。ですから、昔はファリサイ派でも今は違うはずです。これは議場を混乱させる演技なのでしょうか。

実は、わたしは生まれながらのファリサイ派です、この部分が大切なのです。この部分、直訳しますと、「この私はファリサイの子であり、ファリサイ派です」、となります。これは慣用的な表現で、わかりやすく訳せば「ファリサイ派の中のファリサイ派である」、このような意味です。

つまりパウロは、この議場に多くいるファリサイ派の議員以上に、私はファリサイ派である、むしろ私こそが本物のファリサイ派である、と言いたいのです。

確かにファリサイ派の人々は、死者の復活を認めてはいます。しかし、それは抽象的であり、思想にすぎません。彼らのうちだれか一人でも復活の希望を宣教していた者があったでしょうか。或いは誰か一人でも、サドカイ派に目を付けられ、裁判沙汰になるほど強力な復活信仰を語っていた者があったでしょうか。おりません。それが彼らの復活理解の実態をあらわしております。

復活が事実なら、喜びでそれを伝えずにいられないはずです。ですから、宣教に発展しない復活信仰は、結局観念や思想程度の代物なのです。

 しかし、パウロは、復活の証人としてここに立っているのです。実際パウロは、復活のイエスキリストを宣教してきたのです。ですから、実はこの議場に真のファリサイ派は一人しかいないのです。

復活信仰を否定するのがサドカイ派で、復活信仰に希望を抱くのがファリサイ派であるのなら、この議場で真の復活を知っていて、真の復活信仰に生きていたのはパウロだけだからです。パウロは、それを議場に問うているのです。イエスキリストの復活を信じないのでしたら、そこには復活の希望はないのです。パウロの証言は、復活信仰に立つのが生粋のファリサイ派である以上、ファリサイ派は、もはやキリスト者にならざるを得ないことも明確にしたのです。

 その後議場はさらに混乱し、パウロは、千人隊長によって救出されなければならないほどでした。

 そしてその夜、パウロに主イエスが現れます。「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。(11節)」ここで主イエスは、勇気を出せと言われました。この勇気を出せという言葉は、新約聖書で7回しか見られない比較的珍しい言葉でありまして、調べて見ますと、全て命令形で使われて、元気を出せ、とか安心せよ、と訳されていることが多く、さらにこの言葉は、与えられた側には、安心するための要素が全くない状況で必ず使われているのです(例えばマタイ9:2参照「子よ、元気を出しなさい」と中風患者には元気になる要素が全くないのに、ただ主イエスゆえにこのように言われている)。すなわち、主イエスの側に100%その要因がある、ということなのです。

この2日間のパウロのキリスト証言を通して悔い改めた者は一人もいません。福音宣教としては収穫なしです。しかし、そこで主イエスが現れたのです。パウロ側には一つも勇気を出す要素はない、しかし、今パウロはただイエスのゆえに勇気を出せ、と言われたのです。

ここから2つの大切な真理が導き出されます。

 一つ目、キリスト者の勇気、或いは安心は、キリストのみにある、ということです。

 私たちは、キリスト者でありながら、何かと臆病であり、常に不安を抱く者です。それは、いつの間にか、自分の中に勇気や平安の要素を探しているからです。実に、私たちの中に、何一つ勇気や平安を持つ要素がないことを知った時、そこにキリストがおられ、そばに立って言われるのではありませんか、」勇気を出せ、安かれ」、と。

聖書的に勇気とか安心というのは自信ではなく、信頼と信仰なのです。今パウロの目の前に暗闇が広がっております。パウロにとってこの夜は、全く先が見えない、お先真っ暗の現実であったはずです。そこで主イエスは現れたのです。

 私たちにも夜は来ます。何も望めないような暗闇に襲われることもある。しかし、それはもはや問題ではないということです。私たちはこれ以上何も望めない暗闇にあっても、尚、希望の光を見るのです。その時こそこの勇気を出せという主イエスの言葉が聞こえるからです。

 二つ目、主イエスは、勇気を出せと言われただけではありませんでした。「エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」、とこのように、さらなる働きを暗闇の中でパウロに与えられました。

 繰り返しますが、パウロは、このエルサレムで2日間にわたってキリストを証言してきましたが、収穫は0でした。そればかりか、何度も命の危険にさらされ、昨日神殿の庭で暴行を受けていたので、相当な怪我を負っていたでしょう。踏んだり蹴ったりです。

 しかし、主イエスは、2日間のパウロの働きを総括して、わたしのことを力強く証しした、とこの上ない称賛を与えたのです。それは、パウロがイスラエルの神が十字架の主イエスであることを証し、議場でたった一人復活信仰に立ったからです。

 私たちは、福音宣教の成果をこの世的な基準で計る習性をもっていますが、それは聖書的ではありません。

福音宣教とは、主なる神が十字架のイエスである、という証と、私たちが真の復活信仰に立って生きることです。例えこの世で0という数字が突き付けられた時も、十字架と復活を大胆に宣教しているのなら、私たちの福音宣教は主イエスに用いられているのです。私たちは0でも神は無限です。数字を支配するのも神です。

今、伝道不振で、暗闇のような現実が突き付けられています。しかし、パウロは暗闇の中で福音宣教の希望を与えられたのです。

私たちも同じです。暗闇の中でこそ、勇気を出せという主イエスの言葉が響くのです。

今主イエスは言われます、「勇気を出せ、エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」エルサレムはユダヤ教の総本山、ローマは異教徒の総本山です。

私たちの東京は、どうでしょうか。ここは、迷信の総本山でありましょうか。あらゆる偶像崇拝と呪いが入り交じり、何を信じてよいのかわからないような暗闇それが東京です。

私たちは、ここで十字架と復活を最後まで証言いたしましょう。勇気を出せという主イエスの言葉に立って。