2022年12月17日「神はわがやぐら」

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神はわがやぐら

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
詩編 46章2節~12節

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2節 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
3節 わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも
4節 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。(セラ)
5節 大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に。
6節 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
7節 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
8節 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。(セラ)
9節 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
10節 地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
11節 『力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。』
12節 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。(セラ)
詩編 46章2節~12節

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説教の要約

「神はわがやぐら」詩編46:2~12

 今年のアドベントは、詩編の御言葉によって、主を待ち望む私たちの信仰を養われています。

本日の御言葉は、その最終回に相応しく、主を待ち望む詩編の代表作であり、この2000年間の教会史の中で、常に信仰者を慰め、励まし、支えてきた信仰の詩であります。ご存知の方が多いと思いますが、この詩編からマルティン・ルターは讃美歌「神はわがやぐら」を謳いました。

 これは見落とされることが多いと思いますが、この詩編には、三回〈セラ〉という表記があって、これは、旧約の時代に、この詩編が歌われた時の音楽記号であると言われています。一般的には、この〈セラ〉のところで、一度歌うことを止めて、しばらく沈黙する、楽器も歌もここで一度休止する、そう言う記号であると言われています。ですから、当時の礼拝で、この〈セラ〉が与えられていた役割は、殊の外大きかったと思われます。

さて、この詩の表題は、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。(2節)」、この部分で、以下でそれが説明されていきます。

実は、この詩編は、ヒゼキヤ王の時代にアッシリア王センナケリブが、大軍を率いて攻め上ってきた出来事(列王記下18:13~19:35参照)が背景になって謳われている、と多くの研究者の意見が一致しています。ですから、「わたしたちは決して恐れない(3節)」、と続けて謳われていますが、これは大勝利を体験したうえでの信仰告白であって、決して闇雲に勇気を奮い立たせて言っているのではありません。そんな勇気など微塵もなかったのです。実際アッシリアの大軍が攻め上ってきた時、エルサレムは、何もできずにただ震え上がっていたのです。しかし、その18万5千の大軍が、一夜にして全滅してしまった、この神の力を目の当たりした時、彼らは、「わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも」と謳ったのです。エルサレムの神の民は、徹底的に無力で臆病でありました。

しかし、その無力で臆病であるということは、信仰の世界では全くハンディにはならない。この御言葉は、それを言いたいのです。これは、神の力を目の当たりにした神の民の信仰告白なのです。

そして、その信仰告白の頂点に響くのが、この詩編で繰り返される、「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。(8、12節)」この賛美です。

ここで、「わたしたちと共にいます」、この部分はヘブライ語でイマヌー(עִמָּ֑נוּ)と読みます。これは英語ではwith usでありまして、あのインマヌエルは、このイマヌーに神を意味する字でありますエルをくっつけてインマヌエルと呼ぶのです。ところが、この節で言われている状況は、インマヌエルをさらに超えた神の御臨在です。万軍の主が、イマヌー(עִמָּ֑נוּ)であるからです。エルという字は、神を省略した名称で、例えばダニエルやサムエルという人名や、エルサレムという地名にも使われますので、日常的に口から発せられる言葉でした。しかし、この万軍の主の主という字は、聖書で最も威厳を持つ字でありまして、ユダヤ人は、これを発音することさえためらいました。この字は、本来ヤーウェ(יְהוָ֣ה)と発音するべきなのですが、これが恐れ多いということで、ユダヤ人たちは、これをアドナイ、と読み換える規則を作りまして、そのように読み換えているうちに、いつの間にか、ヤーウェと読む発音が分からなくなっていたと言われるほどであります。そのヤーウェ(יְהוָ֣ה)が、しかも万軍のヤーウェ(יְהוָ֣ה)がイマヌー(עִמָּ֑נוּ)である、これは、最も畏れ多い、最強の身分であります。 インマヌエル以上、のインマヌエル、それが、ここで謳われています「万軍の主はわたしたちと共にいます」、これなのです。そして、この万軍の主は、「地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる(10節)」のです。これはアッシリアの大軍の全滅によって示された歴史的事実が簡潔に謳われたもので、ここでは全ての武器が神の前では無力化されることが強調されているのです。

 時代によって兵器は変わり、進化を続けています。特に今、我が国の政府与党は、防衛費の財源を確保することに血眼になっています。さらに、ウクライナの状況や中国の驚異等で不安を煽って、また戦争のできる国へと変身しようとしている、簡潔に言えば、それが今の政府の姿です。

 私たちは、何とかしてこの戦争への道を止めなければなりません。「まずいと本当に思った時はもう手遅れであった」、それが、あの戦争を経験された方たちが、口をそろえて言われてきたことです。

 私たちの教会に与えられている子どもたちのためにも、今はとても大切な時であります。

 では、どうすればよいのか。それが「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう」、これであります。これは、決して何もしないでいることではありません。それはただの無関心です。主の御業に目を注ぐことです。この世のあらゆる動きに主の御業を見つける、つまりすべてのことを御言葉と関係させながら見つめる立場です。御言葉に押し出されるのでしたら、デモに参加することだってあり得ましょう。

 しかし、何よりも祈ることです。祈りなしに主の成し遂げられることを仰ぎ見ることなど絶対に出来ません(列王下19:4~20参照)。祈りの驚くべき力は、当然祈っている人にしかわからないのです。そして祈る時、立ち上がってくる御言葉が「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。(11節)」、これではないでしょうか。ここで「力を捨てよ」、とありますが、もともとのヘブライ語では、ここに力という字はなくて、ここは、もともとは「手放す」、「放棄する」という動詞の命令法で、「やめよ」或いは「静まれ」くらいに訳した方が良いと思われます。つまり(セラ)の状態です。

「静まれ、知れ わたしは神」、この沈黙(セラ)が、今、何よりも私たちには必要なのであります。

 エルサレムが、アッシリアの大軍に囲まれたその時のユダヤの王はヒゼキヤでありましたが、そのヒゼキヤに神の言葉を取り次いだのが預言者イザヤでありました。ですからこの詩編の底流にイザヤの神学が色濃く流れているようで、「静まれ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」、これは、イザヤ書で示されています神の救いの要約ともいえます。イザヤ書は言います。「まことに、イスラエルの聖なる方わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。(イザヤ30:15)」

私たちは、インマヌエル(神ともにいます)の信仰に立っています。特に今日はそれ以上の立場、インマヌエルを凌ぐインマヌエル、「万軍のヤーウェ我らと共にあり」この御言葉が与えられました。だからこそ、立ち帰って静かにしているならば救われるのです。そこにこそ主の力があるからです。私たちには救われる値打ちもなければ、その要素もない、ですから慌てても何も起こらないのです。大切なのは静かにしている信仰、神に全てを御委ねして沈黙できるその信仰なのです。

最初に確認しましたように、この詩編では三度〈セラ〉繰り返されるわけです。この最後の〈セラ〉は、この週私たちが神の前に、御言葉の前に沈黙するために用いましょう。クリスマス礼拝の備えのための〈セラ〉といたしましょう。「万軍の主は我らと共にあり。ヤコブの神はわがやぐら。」、この週はこの御言葉に、〈セラ〉でありたいと願います。