2022年12月03日「我らの魂は主を待つ」

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我らの魂は主を待つ

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
詩編 33章1節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。
2節 琴を奏でて主に感謝をささげ十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。
3節 新しい歌を主に向かってうたい美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。

4節 主の御言葉は正しく御業はすべて真実。
5節 主は恵みの業と裁きを愛し地は主の慈しみに満ちている。
6節 御言葉によって天は造られ主の口の息吹によって天の万象は造られた。
7節 主は大海の水をせき止め深淵の水を倉に納められた。

8節 全地は主を畏れ世界に住むものは皆、主におののく。
9節 主が仰せになると、そのように成り主が命じられると、そのように立つ。
10節 主は国々の計らいを砕き諸国の民の企てを挫かれる。
11節 主の企てはとこしえに立ち御心の計らいは代々に続く。

12節 いかに幸いなことか主を神とする国/主が嗣業として選ばれた民は。
13節 主は天から見渡し人の子らをひとりひとり御覧になり
14節 御座を置かれた所から地に住むすべての人に目を留められる。
15節 人の心をすべて造られた主は彼らの業をことごとく見分けられる。

16節 王の勝利は兵の数によらず勇士を救うのも力の強さではない。
17節 馬は勝利をもたらすものとはならず兵の数によって救われるのでもない。
18節 見よ、主は御目を注がれる主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
19節 彼らの魂を死から救い飢えから救い、命を得させてくださる。

20節 我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。
21節 我らの心は喜び聖なる御名に依り頼む。
22節「主よ、あなたの慈しみが我らの上にあるように主を待ち望む我らの上に。」
詩編 33章1節~22節

原稿のアイコンメッセージ

「我らの魂は主を待つ」詩編33:1~22

先週予告しましたように、今年のこのアドベントの期間は、一度ヨハネ福音書の講解説教を中断して、旧約聖書の詩編の御言葉によって、共に教えられたいと願っています。詩編は、神の約束を待ち望んだ旧約時代の信仰者の叫びです。目の前の現実がいかようであっても、信仰に立って歩んだその証言集、それが詩編です。これはそのまま、再臨の主を待ち望む私たちの信仰の叫びともなります。

本日与えられました詩編33編は、「神賛美の詩」、と言えまして、最初の段落では、「主によって喜び歌え」、「喜びの叫びをあげよ」、と信仰者を奮い立たせて始まります。

その上で、2つ目の段落では、その神賛美の理由として、天地万物創造の神が謳われ(4~7節)、続く3つ目の段落では、摂理の神が賛美されます(8~11節)。神賛美の根拠は、私たちの神が創り主であると同時に、今も全てを統べ治められる摂理の神である、この神の絶対的主権にあるのです。

さらに4つ目の段落では、その主権者である神に選ばれた民の幸いが謳われたうえで(12~15節)、5つ目の段落で、それが具体的に適用されます。

「王の勝利は兵の数によらず勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い飢えから救い、命を得させてくださる。(16~19節)」

 ここで謳われていることは、ことごとく逆です。この時代、王の勝利は兵の数によったのです。

 勇士を救うのも力の強さであったのです。当時馬は、戦車の言い換えでもあり、それゆえ馬は勝利をもたらすものであったし、兵の数によって救われる、これは言うまでもないことでありました。

 ここで言われていることは、全て逆さまなのです。そして、だからこそ歴史的事実として、ユダヤはバビロニアに負けて、バビロン捕囚の憂き目にあったのではありませんか。バビロンは圧倒的戦力でいとも簡単にユダヤを倒したのです。

 ですから、「王の勝利は兵の数によらず勇士を救うのも力の強さではない」、これは痛い目に会ってもわからない愚か者の詩であります。しかし、その愚か者を信仰者と呼ぶのではありませんか。

 そして結局、その愚か者が待ち望んだ通り、約束の救い主イエスキリストがこの世に誕生され、十字架と復活によって救いを実現してくださったのです。愚か者が勝ったのです。

 この世から見れば、何時の時代も信仰者は愚か者であります。真の信仰者であればあるほどそうです。ハイブリッドな信仰なら、そのようには見られないでしょう。この世の立場と信仰的立場が、いつも交換可能となっているのなら、当たり障りないはずです。そして、ハイブリッドな信仰、これが、私たちの時代の信仰者に与えられている最大の誘惑であり、試練ではありませんか。

 「王の勝利は兵の数によらず勇士を救うのも力の強さではない」、私たちは今この信仰に立っているでしょうか。

今、主の再臨を待ち望むアドベントにあって、実は、最も必要なのは、文字通り、主の再臨を待ち望むアドベントの信仰なのです。それは、愚か者と言えるほど愚直な信仰であり、明日にでも主イエスが来られる、その備えをする信仰、それが主の再臨を待ち望むアドベントの信仰なのです。

 実は、信仰の証は、ハイリスクハイリターンなのです。リスクのかからない信仰告白なら、簡単にできるのです。この世にあざ笑われる時、憎まれる時、それでもイエスは主である、と告白する、それが真の信仰であり、「見よ、主は御目を注がれる主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に(18節)」、と謳われる信仰者です(創世記6~8章「ノアの箱舟参照」)。この世を恐れるのではなく、主を畏れる人、この世の報いに期待するのではなく、主の慈しみを待ち望む人、実は、これが、信仰者なのです。

 その上で、最後の段落で、最終的な信仰の表明がなされます。

「我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。我らの心は喜び聖なる御名に依り頼む。主よ、あなたの慈しみが我らの上にあるように主を待ち望む我らの上に。(20~22節)」

ここでは、「我らの魂は」或いは、「我らの心は」これが主語になっていまして、ここで言われています魂という字と心という字は、言葉を変えているだけで意味は同じです。そして大切なのは、これは決して肉体と無関係に、「我らの魂は」、或いは、「我らの心は」と言われているのではないということです。ここで言われています魂、そして心という言葉は、分かりやすくい言いますと命です。

つまり、肉体を含めた私たちの命全体で、「主を待つ」、とこのようにここでは謳われているのです。

 見逃してはならないのは、この日本語訳の聖書では省略されていますが、ヘブライ語の聖書の本文で、実は、21節には、「まことに」という言葉が繰り返されているところで、正確に訳しますと「まことに、我らの心は喜び、まことに、我らは、聖なる御名に依り頼む」となります。

 どうして、ここで「まことに」と執拗に繰り返されているのでしょうか。それは、ここには、不信仰との戦いがあるからではないでしょうか。私たちも祈りの中で、「まことに」「まことに」と繰り返すことがないでしょうか。行き詰ってしまって、しかし、その状況で、全く祈りが聞き届けられない時に限って、私たちも、「まことに」「まことに」、と何度も何度も繰り返すのではありませんか。信仰は常に不信仰との戦いなのです。ですから、実は、この節は、「我らの心は喜んでいるだろうか、聖なる御名に依り頼んでいるだろうか。」この不信仰と背中合わせに謳われているのです。そもそも、「主は我らの助け、我らの盾」、と謳います時、もし主がおられないのなら、こんなにもろいディフェンスはありません。そしてその主は目には見えないのです。目に見えない主に、御言葉の約束だけを頼りに、全面的信頼を寄せる、これがこの詩編で謳われています信仰であり、私たちの信仰です。

 ですから、その場合最も大切なのが祈りなのです。「主よ、あなたの慈しみが我らの上にあるように主を待ち望む我らの上に(22節)」これです。この最後の祈りが、この詩編全体を支えているのです。

 そして、この祈りが必ず主なる神に聞き届けられ、私たちが願ことをはるかに超えて、それをかなえてくださる。だから私たちは、喜び歌うのです。ほめ歌をうたうのです。新しい歌を主に向かってうたうのです。まるで大勝利でもしたかのように歓声を上げ、主の名を叫ぶのです。

 今は、小さな歌声かもしれない、しかし、やがてそれは全地に響き渡る大合唱となって、主の再臨をほめ謳う賛美となりましょう(讃美歌453)。

 バビロン捕囚の憂き目にあって、あらゆる偶像に取り囲まれた一握りの信仰者は、その現実の中で、約束の救い主を待ち望みました。

私たちも同じです。目の前の現実がいかようであっても、約束通り再臨のイエスキリストは、おいでになる。この再臨の主を待ち望む信仰に今を生きようではありませんか。