2022年10月02日「栄光世々限りなく神にあれ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

21節 わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。
22節 この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。
23節 わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。
25節 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。
26節 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。
27節 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
ローマの信徒への手紙 16章21節~27節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約

「栄光世々限りなく神にあれ」ローマ書16:21~27

本日の御言葉の頌栄部分(25~27節)を最後についにローマ書講解全体が終わります。

ここで大切なのは、「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」と言われます時、あなたがたは弱いということです。

 弱いから、あなたがたを強めることがおできになる神に頼るしかないのです。私たちは、自ら強くなることは出来ないのです。神だけが、イエス・キリストについての宣教によって私たちを強くすることが出来る、これがここで言われている真理です。ここでは、福音宣教における私たちの弱さと神の強さがコントラストになっているのです。

その上でパウロは、「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。」、と続けます。この福音と言うのは、すぐ前で明らかにされていますように、「イエス・キリストについての宣教(ケリュグマ・κήρυγμα)」であり、キリストの十字架と復活の宣言です。それが、「世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです」、とパウロは言うのです。

 これは簡潔に申し上げれば、旧約時代から預言されてきたことが、キリストの十字架と復活によって実現した、ということで、「世々にわたって隠されていた」、これは、別の角度から言えば「わずかな旧約の信仰者が救い待ち望んできた」、ということです。

 この「秘められた計画を啓示するものです」、とあります「秘められた計画」という言葉は、ミュシュテリオン( μυστήριον)という字を書きまして、英語のあのミステリーの語源になった字です。人間の論理や理性では説明できない出来事、それがこの「秘められた計画」であります。そして、福音が、それを「啓示するもの」である、ということです。

この「啓示する」という字は、覆いが取り除かれる、という意味でありまして、聖書的には、ただ神によってのみ現わされる真理を指す言葉です。福音と言うのは、神によって、「秘められた計画」の覆いが取り除かれることである、ともいえるのです。

 実はあのヨハネの黙示録は、この「啓示する」という字がそのまま表題になっています。「イエス・キリストの黙示(ヨハネ黙示録1:1)」この「黙示」、という字が、本日の御言葉では、「啓示する」と訳されている同じ字です。そして、この黙示録でベールを脱ぐ啓示は「この黙示は、すぐにも起こるはずのことを(ヨハネ黙示録1:1)」と言われていますこれから黙示録で示される終末の出来事であります。つまり、秘められた計画(ミュシュテリオン・μυστήριον)であるイエスキリストの十字架と復活の啓示は、終末の出来事も含めてその覆いが取り除かれるということなのです(Ⅰコリント1:7も同じように、イエスキリストの十字架と復活の啓示から終末の出来事の希望を謳っています。参照ください)。

つまり、本日の御言葉で「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。」、とこのように、「秘められた計画を啓示する」、と言います時、これは大きく二つのことが言われているのです。一つは、旧約聖書で預言されてきたキリストの十字架と復活によって実現した罪人の救いです。同時に、もう一つは、その十字架と復活によって展望される終末的な神の国の実現であります。つまり、過去、現在、未来、この歴史全体を貫く神の救いの出来事、それが、「秘められた計画」(ミュシュテリオン・μυστήριον)であって、それがキリストの十字架と復活によって今や啓示されたということなのです。

 さらにこの「秘められた計画」について説明されます。「その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。(26節)」ここで「その計画は今や現されて」、とあります、「現される」、という字は、前の節の「啓示する」、という言葉とは違う字を書くのですが、意味は全く同じで、神のみが顕される真理を示す言葉です。ここでパウロは、わざとこの交換可能な2つの言葉を用いて、神の啓示の豊かさに含みを持たせようとしているようにさえ思われるのです。

 実は、このローマ書全体のテーマが謳われている1:17と、このローマ書の信仰義認の真理を決定づける3:21でも、この2つの言葉が交互に使われているのです。

 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(1:17)」ここで「福音には、神の義が啓示されていますが」、とあります啓示される、これが、本日の御言葉の25節の方で「啓示する」、と訳されている同じ言葉です。

 さらに、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました(3:21)」この最後の「神の義が示されました」、この示されるという字が、本日の御言葉の26節の方で使われている「現される」、という字と同じです。このローマ書の主題である信仰義認を宣言する最も大切な二つの箇所で、この両方の言葉が使われたうえで、ローマ書を締めくくる本日の御言葉でも同じようにこの両者が使われているのです。ありふれたレトリックではありますが、ここでパウロは、神の啓示の偉大さと豊かさを全身全霊で讃えているわけです。

 また、パウロは大胆にも「すべての異邦人に知られるようになりました」、と最後に謳います。彼には、まだ残された伝道地があるはずです。ローマからさらに地の果てにあるイスパニアには、まだ到達していません。パウロにとってそこは、福音宣教未開の地なのです。しかし、もうその最果ての地に至るまで福音が響き渡ったかのように謳うのです。パウロはまだ手が届かなくても、神の啓示においては、それが実現し、キリストの再臨まで信仰の目によって確認していたからです。なんとポジティブな信仰でありましょうか。ここには、細々とした福音宣教の理解など欠片もありません。

 現代の教会の福音宣教が、御言葉から大きく外れてちっぽけになっているのはどうしてでしょうか。

 私たちは今こそ悔い改めて、「すべての異邦人に知られるようになりました」、と大胆に福音の勝利を宣言いたしましょう。福音の主は御霊なる神です。

 さて、ローマ書の最後の一節です。

「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(27節)」これがローマ書の最終的結論と言えましょう。

 ローマ書ほど、人間の罪の深刻さを具体的に説明する御言葉はありません。

同時にローマ書ほど、救いの恵みの偉大さに目を向けさせる御言葉もありません。

 実に人間の罪とキリストの恵みのコントラスト、それがローマ書であります。

 それでも尚、「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。(5:20)」とローマ書は謳うではありませんか。その時、私たちはただ神を讃えるほかないのであります。

 「栄光世々限りなく神にあれ。アーメン。」と。