2022年09月04日「パウロの祈り」

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30節 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、
31節 わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、
32節 こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。
33節 平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。
ローマの信徒への手紙 15章30節~33節

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「パウロの祈り」ローマ書15:30~33

本日の御言葉は、このローマ書の本来の結びの部分でありまして、それは最後に「アーメン」を含む祝祷で終わるところからも明確です。その最後の部分で、「どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」、とパウロはローマの信徒たちに祈りを要請します。「祈りの共闘」、とでもいましょうか。パウロが、いかに祈りという信仰の武器に信頼をおいていたかが分かります。

そして、パウロが要請したその祈りの課題の一つは、わたしが、すなわちパウロが、ユダヤにいる不信の者たちから守られること、そしてもう一つはエルサレムに対するパウロの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、この二つであります(31節)。

 一つ目の方の、ユダヤにいる不信の者たちから守られること、これは、ユダヤ教の迫害者たちから守られること、と申し上げてよろしいでしょう。前回の御言葉では、パウロが楽しそうに将来の伝道計画を語っていました。しかし、それは、決して、呑気に夢を見ていたわけではないのです。エルサレムに向かうことが非常に危険であることくらいパウロは百も承知であったのです(使徒言行録20:22~24参照)。パウロは、決して楽観的に伝道計画を立てていたのではありません。そうではなくて、命をかけた伝道計画を楽しそうに語れる信仰者であったのです。

そして、その上での、もう一つの祈りの課題が、「エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」、これであります。一つ目の祈りは、不信の者たちから守られ、でありましたが、今度の相手は聖なる者たちに変わっています。これは勿論キリスト者でありまして、今度は、同じ信仰を持つ兄弟姉妹との関係で祈りが要請されるわけなのです。そして、「エルサレムに対するわたしの奉仕」、これは前回学びましたように、パウロが、伝道旅行で集めてきた献金のことであります。

 パウロは、異邦人伝道の集大成ともいえるエルサレムへの献金が、エルサレムの教会で拒否される可能性が高いことを知っていたのです。だから祈りを要請しているのです。パウロがそれを渡すことは極めて困難である、しかし、神にはそれがおできになる、だから祈るのです。

パウロは、自分の可能性に立っていたのではなくて、ただ神の可能性に立っていたのです。これが信仰者の立場です。そして、神の可能性に目を向ける、これこそが祈りなのです。祈りとは、自分ではなく、神の可能性に立つことであります。

しかし、如何でしょうか。前回も教えられましたように、このパウロの祈りは、ことごとく額面通りにはかなえられませんでした。パウロは、不信の者たちから守られるどころか、暴行を受け、危うく殺されそうになりました。しかし、ぎりぎりのところで、ローマ兵によって保護されて囚人とされたのです。

 さらに、「エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」、こちらの方は、さらにかないませんでした。恐らく、献金も受け取ってもらえず、この祈りは、全く聞き届けていただけなかったのです。それでは、「こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。(32節)」、これはどうでしょうか。パウロは、確かにローマにたどり着きました、しかし、それは、囚人として鎖につながれた状態でした。そしてパウロは、憩うはずのそのローマの地で処刑されてしまいました。リフレッシュではなくて、ジ・エンドになってしまったのです。それが神の御心であったのです。この祈りと神の御心との乖離を、私どもはどう理解すればよいのでしょうか。御言葉はどういうのでしょうか。

本日の招きの詞では、申命記から、モーセが約束の地に入ることを、神に願った御言葉が与えられました。「わたしは、そのとき主に祈り求めた。「わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。あなたのように力ある業をなしうる神が、この天と地のどこにありましょうか。どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主はわたしに言われた。「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。(申命記3:23~26)」信仰者の中でも、このモーセの立場に同情する方は、非常に多いと思います。モーセの願いが、とてもよくわかるからです。あれ野の40年の報酬として、約束の地を求めるのは、不相応でしょうか。間違っているでしょうか。いいえ、むしろ当然だと思います。しかし、それがかなえられなかった。どうしてでしょうか。それは、さらなる約束の地が用意されていたからです。モーセは、「どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください」、と地上の約束の地だけを臨み、それを目的地としていました。しかし、主なる神は、それをはるかにまさる真の故郷を用意してくださる方なのです。そして、この神のご計画が、信仰者列伝と呼ばれていますヘブライ書の11章の最後に記されています。「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。(ヘブライ書11:39、40)」、ここで、神が私たちのために計画してくださっていた更にまさったもの、これは主イエスキリストであります。主イエスの十字架と復活によって、私たちには永遠の命と、天の故郷が与えられたのです。

ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、レバノン山などとは、比較にもならないご褒美が、モーセに用意されていたのです。

そして、この私たち信仰者の真の故郷は、他でもないパウロ自身が最も明確に謳っています。

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(フィリピ3:20、21)」

「わたしたちの本国は天にあります」、実にこれが私たちの祈りと神の御心との間に大きな乖離が生まれることの回答ではありませんか。私たちの祈りは、この地上だけでなく、神の国を含めた実現の場所を持っているのであって、神はその両方を支配するかたちで、私たちの祈りを聞き届けてくださるお方だからです。実は、私たちの死の時は、ジ・エンドではなくて、リフレッシュなのです。そして、悲惨な生涯であればあるほど、真の故郷であります約束の地の希望が大きくなるのではありませんか。これがこの世と天の国との関係です。この世での涙は、地上での悲惨は、必ず天の故郷で報われるからです。額面通りにはかなえられなかったパウロの祈りは、このことを見事に証しているのではないでしょうか。この世の歩みが辛い時、祈っても、祈っても、それがかなえられない時こそ、私たちは神の愛に目を向けようではありませんか。それは、独り子を十字架に引き渡すほどに、この私を愛してくださる、御言葉が保証する額面通りの神の愛であります。