2022年08月14日「使徒パウロのプロフィール」

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聖句のアイコン聖書の言葉

14節 兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。
15節 記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、
16節 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。
17節 そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。
18節 キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、
19節 また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。
20節 このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。
21節 彼のことを告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。
ローマの信徒への手紙 15章14節~21節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約

「使徒パウロのプロフィール」ローマ書15:14~21

本日の御言葉からいよいよローマ書のエピローグ部分へと入って行きまして、まずは、本論部分を書き終えたうえでの補足とパウロの簡単な自己紹介が記されています。

自己紹介の最初にパウロは、神から与えられた自らの務めを紹介しています。「それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。(15~16節)」パウロは、異邦人のための使徒でありました。そして、その目的が、「異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となる」これなのです。これは、簡潔に言えば、異邦人が真の神を礼拝する、ということで、今まで真の神を無視して偶像崇拝に耽っていた異邦人が、生ける真の神に立ち帰り礼拝をささげるということです。

 実にこれは、すでに学びました、このローマ書の第二部の信仰生活編の序論であり結論ともいえます、あの12:1の御言葉そのままであります。 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(12:1)」、この自らを神にささげる献身的な神礼拝が、異邦人たちの中で実現すること、これがパウロの異邦人のための使徒としての目的であり、神の福音のために祭司の役であったわけです。

 さて、その上でパウロの福音宣教が総括されます。「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。(18、19節)」、これは、パウロの福音宣教の総括であり、彼が命を賭けた伝道旅行の足跡です。しかし、パウロは、「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません」、とその全てが、キリストの働きであったことを証言しているのです。パウロは、キリストの福音の世界宣教の扉を開いた伝道者であり、これほど福音宣教に仕えた信仰者はおりません。しかし、彼自身の功績は、一つも語らないのです。

 何かというと自分の功績にしたがるがめつさが、私たちには少なからずあります。とりわけ牧師にはそのような傾向があります。しかし、それは、主イエスと無関係に自分を評価することに他なりません。

 本当に主イエスがともにいる、という平安がある以上、福音宣教に実績や功績はいらないのです。

 さて、その上で、パウロの福音宣教の方針が示されます。「このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。(20節)」簡単に言いますと、パウロは自分に与えられた福音宣教の役割が、開拓伝道であったと理解していたということです(Ⅰコリ3:10、11参照)。しかし、パウロは、この開拓伝道の働きを、決して自分の都合や好みで選んでいたわけではありませんでした。それは、御言葉によって、与えられた役割であったのです。「彼のことを告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。(21節)」ここではイザヤ書の御言葉が引用されていまして、パウロの開拓伝道の働きの根拠にこの御言葉が立ち上がっていたことが証言されています(イザヤ52:15参照)。彼の開拓伝道の役割の根拠に、このイザヤ書の御言葉があって、それゆえこの御言葉が、パウロの生涯を拘束し、終始彼を開拓伝道へと遣わしたのです。

たった一つの御言葉が、信仰者の人生を変え、その生き方を拘束してしまう、この御言葉の力がパウロのこの聖書引用によって証明されているわけです。そして、それゆえにパウロの生涯が、神によって支配されていたことが、本日の御言葉全体からも雄弁に証しされています。

 本日は、「使徒パウロのプロフィール」という説教題が与えられました。

 ここに、使徒としてのパウロの生き様が描かれているからです。実は、パウロは、キリストと無関係であった頃の彼のプロフィールも語っているのです。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。(フィリピ3:5~6)」しかし、このプロフィールは見事に破綻してしまっているのです。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています(フィリピ3:7~8)」キリストと無関係なプロフィールは、塵あくたに過ぎない、これがパウロに与えられた結論であります。そして、同じこのフィリピ書には、主イエスのプロフィールも示されています。

 2:6~8「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ2:6~8)」

 パウロが、この世的な価値観では誇り得た全ての経歴は、このキリストのプロフィールによってことごとく無意味なものに変えられたのです。彼の生粋のヘブライ人という出生と生まれて八日目の割礼、エリートコースであるファリサイ派の一員、非の打ち所がない律法の義、これらのものは、この主イエスのプロフィールによって、跡形もなく吹き飛ばされ、その残骸は塵あくたに過ぎない、これが両者のプロフィールが突き付けられることによって、鮮やかに示されているのです。

その上で追加されたパウロのプロフィール、それが本日の御言葉で謳われているわけです。ここには、この世的な誉れなど一言も見当たりません。しかし、この経歴は、破綻するどころか、力強く、自信に満ち溢れて描かれています。よく見ると繰り返し、神の御業を讃える表現を見つけることが出来ます。15節では、神から恵みをいただいて、続く16節、神の福音のために、さらに、17節、神のために働く、18節、キリストがわたしを通して働かれた、と徹底的にパウロの福音宣教と生涯全体の主役が神であったことがここで示されているのです。

私たちのプロフィールにどれだけ神が登場するでしょうか。思い浮かべていただきたいのです。生涯を終える時、振り返って思いだすことが、キリストの御業である信仰者は幸いです。

実は、本日説教前に歌いました讃美歌121番は、キリストの御生涯を歌い上げた賛美です。救い主イエスキリストのプロフィールとも言えましょう。そして、この後賛美します讃美歌249番は、Ⅰテモテ1:15のパウロの告白であります「われ罪人の頭なり」がもとになった讃美歌で、パウロのプロフィールが謳われています。「われ罪人のかしらなれども」から始まりまして、その後の歌詞を追っていますと、まるでこの私の信仰生活がそのまま謳われているようで胸を締め付けられ、冷静に歌うのが難しい、そう言う讃美歌です。「われ罪人の頭なれども」、と賛美する時、私が罪人の頭である、というこの事実が暴かれたうえで、それでも赦されるということであります。

私たちのプロフィールに、常にこの赦しが、キリストの十字架が描かれますことを願います。