2022年07月24日「信仰生活の縮図」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
2節 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。 
3節 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
ローマの信徒への手紙 15章1節~3節

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説教の要約

「信仰生活の縮図」ローマ書15:1~3

先週まで、ローマ教会の中で、実際に起こっていた弱い人と強い人との間にあったトラブルに対してパウロは説得を続けてきましたが、本日の御言葉の最初にその結論が出されます。

「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。(1節)」、これです。

この日本語訳の聖書の本文では分かりにくいのですが、実はギリシア語の本文では、この「担うべき」、この部分に二つの動詞が使われていまして、主動詞は、ここで、「べき」とだけ訳されている言葉の方です。そして、この「べき」と訳されています言葉は、もともと「負債がある」、「借金している」或いは「負い目がある」と訳せるとても大切な言葉なのです。

さらに、実はこの節の文頭は、この「べき」という字から始まっていて、それゆえここでは「負い目がある」これが、非常に強調されているのです。そして、「担うべき」の「担う」、こちらの方は、この「べき」と訳されている「負い目がある」という意味の主動詞にかかる不定詞なのです。ですから、本来ここは、「担うための負い目がある」、このくらいはっきりした表現です。つまり、ここでパウロは、強い者は、弱い者の弱さに対して、負債さえあるのだ、とこのように言いたいのです。

本日は、礼拝後に新会堂のための懇談会が行われますが、新会堂を建てていく上で、この聖書的な理解は大切です。強い者には、負債があって、それは強くない者の弱さを担うための負債です。

 私たちの時代ですと、強い者と言いますと経済的な強さがまず頭に浮かぶかもしれません。しかし、それは、聖書の世界におきましては、たいした問題ではありません。勿論、魔法のようなもので新会堂を建てることなどできませんから、多くのお金が必要になってくることは確かです。しかし、お金が必要なら、そのための奉仕者も主なる神は用意されています。多く献げることが出来る方は、多くいただいているからそれが出来るのです。私たちの信仰に立てば、この世の全てのものの所有者は神であり、私たちはそれを委ねられていて、管理している、そう言う立場です。そうである以上、多く献げられる人は、神からいただいたものを多くお返しできることに感謝するはずです。またそう言う点で、強い人と言えるかもしれません。しかし、いくら多く献金をささげて強い人とされても、全くささげることのできない人と同じ立場である、それが今まで示されてきたことです。金額的にはわずか、或いは全くささげられない人もおられるでしょう。しかし、それを負い目に感じる必要など全くありません。聖書は、そう言っていますか。弱い人は、弱いことに負債を抱えている、とそう御言葉は言いますか。いいえ、むしろ負債を抱えているのは強い人の方である、と御言葉は言うのです。

 この世にあっては弱い者が弱く、その弱さに負い目を感じてしまう。しかし、断じてそれを教会に持ち込んではならないのです。それは、謙遜ではなく、むしろ御言葉に背くことです。教会において弱い人には、その弱いということに関しての負い目はないのです。これは、勿論、献げものだけではありません。教会の全ての奉仕においても同じです。御言葉の奉仕、奏楽の奉仕、会計の奉仕、祈りの奉仕もそうです。それぞれ、奉仕が出来る人は、その賜物を授かっているから出来るわけで、出来ない人の分まで用いられるのは当然なのです。そう御言葉は言うのです。

では、それはどうしてか、どうして、強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではないのか、その解答がキリストの姿によって最終的に示されます。

「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。(3節)」、これです。

 キリストは神の御子であり、その力、栄光、栄誉、その全てにおいて、満ち足りて然るべき方です。

 しかし、その全てを放棄されたのです。それどころか、仕えられるべき方が、反対の立場である仕える者となられたのです。パウロは、コリント書でこの立場の逆転をわかりやすく示しています。

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。(Ⅱコリ8:9)」、ここには、万軍の主が、その立場を放棄し、貧しくへりくだってくださった事実が謳われています。それは、「あなたがたが豊かになるためだった」、とありますように、私たちが豊かになるためです。だから、強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではないのです。強い者の強さは、キリストが弱くなってくださったから与えられた強さです。豊かな者も主が貧しくなられたから、豊かにされたのです。この驚くべき逆転が、福音であり、この福音に生かされている以上、自分の満足を求めるべきではないのです。

 さらにパウロは、フィリピ書で、この十字架のキリストのご生涯を最も簡潔に要約しています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ2:6~8)」

これは、私たちの救い主のプロフィールともいえます。イエス様は、私たちのためにここまでしてくださった。私たちは、今まで何度も何度もこの御言葉を読み返して歩んでまいりました。

 しかし、その私たちの歩みとこの主イエスの御生涯はなんと違うことでしょうか。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」、と御言葉は言うのに、私は、人間でありながら、神と等しい者であることに固執していなかっただろうか。

自分を無にしたことが一日でもあっただろうか。

本当に、私は僕の身分であっただろうか。むしろ、神の身分のように勘違いしていたのではないだろうか。

実に、この救い主のプロフィールと正反対なのが、この私の信仰生活の縮図なのです。

信仰生活のどの場面を切り取ってみても、救われるための要素が何一つ見つからない、それが、この私の信仰生活の縮図なのです。しかし、その私に代わって、キリストがへりくだってくださった。これが福音なのです。キリストは、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であった、だから私たちが赦されたのです。

そればかりではありません。やがて、私たちが生涯を終えて、キリストの御前に立たされた時、無罪が宣告されるのはどうしてですか。それは、このキリストの十字架の贖いが私の罪を帳消しにし、まるでキリストであるかのように受け入れられるからです。つまり、最終的にこの私の愚かな信仰生活の縮図に救い主のプロフィール上書きされる、ということなのです。

 キリストの恵みは、私たちの生涯全体に満ち溢れ、どこを切り取ってもキリストの恵みと愛しか見つからない、これが最終的な私たちの信仰生活の縮図です。