2022年07月17日「神の御前に信仰を持て」

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19節 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。
20節 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。
21節 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。
22節 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。
23節 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
ローマの信徒への手紙 14章19節~23節

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説教の要約

「神の御前に信仰を持て」ローマ書14:19~23

先週は、キリスト者の交わりは、信仰的な、或いは論理的な正しさ以上に、そこに愛があるのか、ないのか、これが問われる、ということであり、それが、「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」、この御言葉が要求する現実的な意味であることを教えられました。

教会のど真ん中に、このキリストの十字架が立っている以上、私たちは、互いの弱さを認めて、配慮しあい、許し合い、交わりを深めたいと願うはずです。この十字架の愛が教会を建てるのです。

では、どうすればよいのか、それが、本日の御言葉で整理されながら再度確認されます。「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。(21節)」、これです。しかし、ここでは、あくまでも「望ましい」、とパウロは、このことについては断言していないわけです。肉を食べることやぶどう酒を飲むことは、決して悪いことではないからです。むしろ、これらは、天からの祝福の一部です。聖書は、しばしばこれを喜んでいただくことさえ奨励しています。「さあ、喜んであなたのパンを食べ気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。どのようなときも純白の衣を着て頭には香油を絶やすな。太陽の下、与えられた空しい人生の日々愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報いなのだ。(コヘレトの言葉9:7~9)」、ここでは飲み食いを中心とした衣食住の祝福が謳われています。神様は、こういう方なのです。私たちが勤労の報いを与えられて憩うことを喜んでくださる。もともと、私たち人間は、創造の冠として、天地万物の創造の最後に創られました。それゆえ、「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。」、とこのように、ここでは肉を食べたりぶどう酒を飲んだりする余地は残されているのです。

 ここで、穿った見方をすれば、いつの間にか両者の立場が逆転していることに気が付きます。今まで強かった人たちが、肉やぶどう酒を控えることによって、弱い人たちの立場に賛同しているからです。立場が逆転し、強い人が弱い人になってしまっている。そして、実に、本当に強い人と言うのはそう言う人ではないでしょうか。弱い立場に身を置くことを厭わない、例えば、パウロが「今後一切肉は食べない」、と自らの自由を放棄できるような、聖書的にはこれが強い人なのです。そして、このような真の強さが用いられて、キリスト者の交わりが支えられ、築かれていくのです。

そのうえで、パウロは、さらに信仰の核心部分へと踏み込んでいきます。「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。(22、23節)」、ここで「確信」という言葉が繰り返されますが、これらは通常「信仰」と訳されている同じ言葉で、そのように訳したほうが分かりやすいでしょう。

 信仰と言うのは、他者に見せびらかしたり、認めてもらうためにあるのではなく、さらに、信仰は、自分のためにもっているだけでは機能しないということです。そうではなくて、信仰は、他ならぬ神の御前で持ち続けるためにある、ということです。当たり前のことではありますが、意外とこの点が曖昧なのではないでしょうか。

ヘブライ書の11章に、これを裏付けるように、神に対する信仰の役割を謳った御言葉があります。

 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。(ヘブライ11:6)」、これです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできない、神に近づくことも出来ないのです。信仰というのは神の御前で持ち続けなければ機能しないし、神に喜ばれもしない。そもそも神に近づくことさえできないのです。

私たちは、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである(ウエストミンスター小教理問答書・問1)」、と信仰告白します。しかし、神に喜ばれないで神を喜んでも無駄です。大切なのは、まず他でもない神の御前に信仰を持つこと、これなのです。信仰によそ見はいらない、他の人と比較する必要もない。ただ、神様との関係でそれがあるかないか、これを御言葉は問うのです。「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。(21節)」、とこのように、兄弟のために、自らの信仰の自由を放棄することさえ厭わない、それは、神の御前に揺ぎ無い信仰を持っているからなのです。

しかし、ここで疑問に思うのが、「確信に基づいて行動していないので、罪に定められます」、さらに、「確信に基づいていないことは、すべて罪なのです」、と断言されていることです。

私たちは、しばしば、信仰に基づいて行動していないのではありませんか。むしろ信仰ではなく、自分の都合で行動している場合の方が多いのではありませんか。その場合、私たちは罪に定められるのでしょうか。その通りです。「確信に基づいていないことは、すべて罪」だからです。

 しかし、キリスト者である以上、罪に定められて終わりではないのです。その続きがあるのです。

 実は、ここで、「罪に定められます」、とあります全く同じ言葉が、同じこのローマ書で救いの約束として用いられているのです。それは、このローマ書のクライマックス部分です、と何度も申し上げてきたローマ書8章の冒頭、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません(8:1)」、これです。「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」、それは、たとえ、「確信に基づいて行動していないので、罪に定められても」、です。

 私たちは、確信に基づいて行動せずに、自分の都合で行動してしまう者です。そればかりか、私たちは、罪を犯さない日など一日もなく、愛する主よ、と言いながら罪を犯すことさえできる薄情で狡猾な者ではありませんか。しかし、その薄情で狡猾な私の救い主がキリストなのです。

私がどのように愚かで自分勝手であっても、主イエスを信じ、キリスト・イエスに結ばれている以上、罪に定められることはあり得ないのです。それは、私の代わりに、キリストが、罪に定められたからです。神の御子が、私たちの「罪を取り除くために、罪に定められた(8:3)」、この贖いが完全であるから、私たちの罪は帳消しにされたのです。そして信仰の中心はこの十字架の主イエスを信じることです。この十字架の主イエスによって神の御前に近づくこと、「アッバ父よ~お父ちゃん~」、と神に縋ること、それが、神の御前に信仰を持つことに他なりません。

 この世の信仰の戦いはとても激しくて、その辛さに私たちはしばしば負けてしまいます。そればかりか、信仰に基づかない罪深いことばかり考えだしてしまうこの私たちの信仰生活は罪の温床です。

しかし、その私の罪を十字架の主イエスが全て担ってくださった。そうである以上、私たちは、罪を犯してうつむくのではなくて、罪を犯してしまった時こそ主イエスを仰ぎ、悔い改めて立ち帰ろうではありませんか。これが信仰の原則であり、神の御前に信仰を持ち続ける姿です。