2022年07月03日「生きるにも死ぬにも‐Ⅱ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

7節 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
8節 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
9節 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
10節 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。
11節 こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。
12節 それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

ローマの信徒への手紙 14章7節~12節

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説教の要約

「生きるにも死ぬにも‐Ⅱ」ローマ書14:7~12

先週に引き続きまして、本日も「生きるにも死ぬにも」という説教題が与えられています。

実に、「生きるにも死ぬにも」、ここにキリスト教の核心があります。生きることと死ぬことが同列に並べられ、どちらも極めて積極的なものとして捉えることが出来る、これこそがキリスト教だからです。

本日の御言葉では、この「生きるにも死ぬにも」、という立場に立ったキリスト者の終末信仰が謳われています。

ここでパウロは、教会内の信仰の多様性を認めず、自分の信仰のスタンスを相手に強要する、そう言う立場で相手を裁いたり、侮ったりする、そのような行為を咎めて、「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。(10節)」、とこのように、裁判官の席に着くのは私たちの誰でもなくて、神であることを明確にします。そして、その証拠聖句に、「すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる(11節)」、この終わりの時に響き渡る、天と地を貫く大いなる賛美が、用いられているのです。ですから、私たちは、想像を絶するような大いなる神賛美が響き渡り、こだまする中で、「神の裁きの座の前に立つ」わけなのです。そして、これが、私たちに用意された最後の審判の舞台である、ということです。思い浮かべたいのです。その光景を。何と栄光に満ちた舞台でありましょうか。それが私たちに用意されているのです。

 「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。(7~8節)」、このように生涯を生きた私たちキリスト者、それは、この世的に見れば、何ともつまらない生き方なのかもしれません。おそらくそうでしょう。しかし、この生き方が報いを受ける時、それが、「すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる」、この終わりの時であるのです。そうである以上、「わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。(12節)」、これが、私たちにとって、どうして恐怖になりうるでしょうか。

今日、はっきりとケリをつけておきたいのは、キリスト者にとって最後の審判は恐怖であるのか、ないのか、これです。コロナ禍になる少し前の連合長老会で、この御言葉が恐ろしいという長老さんがいらっしゃって、その時講演を担当されていた牧師に質問していました。「私たちは罪赦されているはずなのにどうして、自分のことについて神に申し述べることになる、のでしょうか」、とこのような内容であったと思います。その長老さん以外にも、同じ立場の方がおられて、最後の審判に対する不穏な空気が連合長老会に漂っていた、そのような印象を受けました。しかし、講演担当の牧師も、なぜか明確な回答をされずに時間の関係もありまして、曖昧な状態で終わってしまったのが非常に残念でありました。そこで実感したのは、最後の審判に不安をもっておられる信徒さんは、改革派教会であっても意外と多いのではないか、ということです。牧会担当の長老さんがこの様子なのですから。

 先に回答から申し上げれば、私たちにとって、最後の審判は恐怖ではありません。むしろ喜びです。その理由を、あくまでも御言葉を根拠にして2つ確認して終わりたいと思います。

 一つ目は、「わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」、の「申し述べる」、この表現です。ギリシア語のもともとの文章で読みますと少しニュアンスが違うのです。

この「申し述べる」、の部分は、2つの字が用いられていまして、「言葉」、という字と、「ささげる」、或いは「供える」という字、この2つなのです。「言葉」と言う字の方は、あのヨハネ福音書の冒頭で「初めに言葉があった」と謳われていますあの言葉、λόγος(ロゴス)であります。これは「言葉」だけではなく、「出来事」とも訳せる非常に大切な字でありまして、ヨハネ福音書のプロローグでは、神の御子キリストをこの字で指し示しているわけです。キリストの言葉、キリストの出来事、それがλόγος(ロゴス)であり、そのλόγος(ロゴス)をささげる、これが「神に申し述べることになる」、ということなのです。

 「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」、この私たちにとってλόγοςとは何でしょうか。キリストです。主にあって生きた私たちの出来事であるλόγος(ロゴス)それはキリストに他ならないからです。ですから、私たちが、「神に申し述べる」、それは、私の真実な救い主が、キリストであることを告白することが中心なのです。私たちが、犯してきた罪が多いか少ないか、ということではなくて、その罪が裁きに値するかしないかということでもない。そうではなくて、その全ての罪を十字架の主イエスが贖ってくださった、この憐れみと恵みに満ちた救いの出来事であるλόγος(ロゴス)を、御前に明らかにする、栄光を主イエスだけにお返しする、それが「神に申し述べる、」この言葉の示す本当の意味であり、最後の審判の時です。つまり、最後の審判、それは私たちがキリスト者であり、キリストが私の主である、これが決定的事実として宣言される喜びと栄光の日なのです。

 二つ目、「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。(10節)」この「神の裁きの座の前に立つのです」、の「立つ」、この言葉についてです。この言葉は、「献げる」、と訳されることが多く、このローマ書の非常に大切なところで使われています。実にそれは、信仰生活編の序論であり、テーマでもある、12:1です。 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(12:1)」この、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」、の献げる、という字、これが、本日の御言葉では、神の裁きの座の前に立つ、この立つという字なのです。

 つまり、私たちは終わりの時に初めて「神の裁きの座の前に立つ」わけではないのです。毎週御前に立っているのです。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる、その最たるものは礼拝だからです。実は、私たちは週ごとに、神の御前に立っているのです。今日も神の御前に立ち、御言葉に聞いています。この御言葉に私たちが悔い改めて、喜びと慰めが与えられるのなら、どうして終わりの時、「神の裁きの座の前に立つ」ことを恐れましょうか。

 さらに申し上げれば、最後の審判で私たちを裁く方はどなたでしょうか。使徒信条が、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁き給わん」と告白しますように、私たちの救い主イエスキリストです。私のために、しかも私がまだ罪人であった時、十字架で私の罪を帳消しにしてくださった救い主が、裁き主である、これほど安心なことがありましょうか。「生ける者と死ねる者とを裁き給わん」このキリストが、そのまま、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主である、ということなのです。

これ以上何を申し上げましょう。アーメン以外の言葉が見つかりません。

 本日はこの後、聖餐式を行います。これは、神の裁きの座の前に立つ時、私たちが招かれる祝宴の先取りであります。私たちが、最後の審判で無罪が宣告され、永遠に神を喜ぶ祝福の保証でもあります(ウ小教理問38を参照ください)。いざ、聖餐の恵みに与ろうではありませんか。