2022年06月19日「神が受け入れた」

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1節 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。
2節 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。
3節 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。
4節 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。ローマの信徒への手紙 14章1節~4節

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説教の要約

「神が受け入れた」ローマ書14:1~4 

本日の御言葉であります14章の最初から、具体的な信仰生活の問題に光が当てられて行きます。それは、「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。(2節)」とありますように、教会員の中での食事の問題であり、「何を食べてもよいと信じている人」、これが強い人の立場であり、「野菜だけを食べている」、これが弱い人の立場であって、この両者の間に諍いがあったわけです。この時代、肉は市場に出回る前に、異教の神殿にささげられることが多く、教会の中には、その場合、肉を食べてしまうと偶像崇拝に関わってしまうのではないか、と警戒する信徒がいたのです(Ⅰコリント8章参照)。

そう言う状況で、食べる人は、食べない人を軽蔑する、食べない人は、食べる人を裁いてしまう(3節)、というこの両者の関係が実際にあったのです。

ローマの教会には、麗しい信徒の交わりがあって、伝道についても熱心であった、しかし、それでも諍いの類や、教会員同士の仲間割れが起こりうる、それが教会なのです。私たちは、地上にある以上、理想的な形をとる教会などない、綻びのない教会などない、ということを覚えておかなければならないのです。

実は、教会に問題がない方がむしろ異常なのです。サタンは、将来的に自分の脅威になる群れにこそ攻撃を仕掛けるからです。そして、サタンの常套手段は、食べる人は、食べない人を軽蔑する、食べない人は、食べる人を裁いてしまう、この教会の内部での諍いなのです。

ですから、全く問題のない教会があるとすれば、実はそれこそが一番問題なのです。どんなに外観が麗しい教会でも、サタンが興味さえ示さない群れ、それは福音宣教の蚊帳の外に置かれている教会に過ぎないのです。そもそも、最初期の教会は、今で言いますと6畳くらいの場所に、すし詰め状態で集まって、礼拝をささげ、信徒の交わりを持っていたのです。ですから、むしろ教会は最初から多くの問題を抱えているのがノーマルであって、実はそれ自体はたいした問題ではないのです。それはかすり傷に過ぎず、常に適切な手当てが出来ていれば、全く問題ないのです。しかし、手当てを間違えると、かすり傷が重症になり、命の危険にさえ発展しうる場合もあるのです。

ですから、大切なのは、その問題が起きないように目を光らせることではなくて、問題が起きた時に、その問題にどう向き合うか、これなのです。そしてそれが、「神はこのような人をも受け入れられた(4節)」これなのです。よく考えるまでもなく、私たちが信仰を与えられ、救われたのは、全て主なる神様の恩恵です。神様が、私という罪人を赦し、受け入れてくださったから、私はここにいるのです。そして、教会は、神に受け入れられたその罪人の集まりであり、例外は一人もいないはずです。

ですからパウロは、「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか(4節)」、と続けます。罪人が罪人を裁いても滑稽でしかないからです。ここで見逃してはならないのは、これは具体的には、弱い人に対する警告であった、ということです。これは、「食べない人は、食べる人を裁いてはなりません(3節)」、この勧告から、発展したものだからです。教会の中で、弱い人、と思われている人が、実は人を裁くことが多々ある、これも私たちは覚えておかなければならないでしょう。

 私たちは弱く貧しいものであることを知りながら、教会の中でも、あの人はだめだとか、つい思ってしまうことがないでしょうか。それより頻繁に、私はだめだ、と思ってしまうのが私たちではないでしょうか。私たちは他者を裁き、それ以上に自分を裁くのです。しかし、私たちがそのように自己卑下を繰り返し、だめな自分に嘆こうとも、それは全く問題にはなりません。その駄目な私を、「主は、立たせることがおできになるからです。(4節)」むしろダメな私が、立つから福音なのです。そして、その私たちを神が受け入れた、と聖書はいうのです。

「神はこのような人をも受け入れられたからです。」ここで、このような人、と言われているのは、軽蔑されたり、裁かれたりする立場の人です。これもそのまま罪人の頭でありますこの私です。

 私は、軽蔑されたり、裁かれて然るべき人間です。しかし、軽蔑されるべき私を神は価高い、としてくださった。裁かれて当然でありますこの私を神が無罪としてくださった。それが、神が受け入れてくださった、ということです。神は、私を軽蔑する人以上に、私の愚かさをよく知っておられる、そんなの全てお見通しなのです。そして神は、私を裁く人以上に、私の罪をよく知っておられる、その神が、私を受け入れて下さった。どうしてでしょうか。それは、私が主イエス・キリストを身にまとっているからです(13:14 )。私たちの身代わりとなって十字架についてくださり、私の全ての罪と汚れを帳消しにしてくださったそのキリストに結合されているからです。 神は、キリストのゆえに、ただそれだけが根拠で、私を受け入れてくださったのです。

ここで「神はこのような人をも受け入れられたからです」、とありますこの「受け入れられた」、という字、これは、実は「信仰の弱い人を受け入れなさい(1節で)」、とあります、この「受け入れなさい」、と全く同じ字です。ですから、神が受け入れたように、あなた方も受け入れなさい、それが本日の箇所で言われている勧告の要約なのです。そして、この言葉は、新約聖書全体で12回程度しか見られず、ローマ書には、ここともう一箇所だけにしか見られません。それが「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。(15:7)」これなのです。ここでも相関的に繰り返されているのです。

 キリストが私を受け入れてくださった、だから、「互いに相手を受け入れなさい」、これが信仰者同士の交わりの根拠なのです。そして、全ての教会トラブルの解決はここにある、いいえむしろここにしかないのではありませんか。神が受け入れた、そして、その「神の栄光のためにキリストが受け入れてくださった」、福音の頂点と言われていますこのローマ書で、このように繰り返されているのです。実に、私たちは、確かに神に受け入れられたかけがえのない信徒の集まりなのです。どうして、そこに諍いや分裂が起きてよいでしょう、そんなに悲しいことがありましょうか。そこには、キリストの十字架が立っているのです。これでもトラブルが解決しないのなら、十字架以上に諍いが大切なら、そちらを宣教すればよろしい。キリストの十字架が示されてそれに逆らうのなら、それはもはや教会トラブルでさえありません。

 本日私たちは、イザヤ書の「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛す」この御言葉で礼拝に招かれました。私たちの側には、何一つ神に愛される理由などない、何の功もない。しかし、ただキリストのゆえに、神は、この愚かな私どもを受け入れてくださった。

 この神の計り知れない愛に私たちはどう応えましょう。

共に讃美歌355番で憐れみ深い主なる神を賛美しましょう。 「つゆだに功のあらぬ身をも 潔めてみくにの世継ぎとなし 黄金のみとのに住ませたもう わが主の愛こそかぎりなけれ。アーメン。」